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なぜ私は、笑ったのか(バタイユの「笑い」から考える)|「みんな、ただ、生きてる(笑)」を味わうシリーズ

「なんでもいいんだよ。みんな、ただ、生きてるだけなんだから(笑)」

という超シンプルな気づきに出会ってから、何が変わっていくのかを深めていこうシリーズです。

この気づきとの出会いは以下記事参照

私は自分と向き合い変容していく途中、フランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユの思想の力を何度か借りました。

そして、最後、私は笑いました。

「なーんだよ、みんな、生きてるだけじゃん(笑)おれも、あの人も、誰もがただ、生きてるだけじゃん(笑)なんでもいいんじゃん(笑)」

本当に声を出して笑いました。1人で(笑)

その様子を見ていた3歳の息子が、「パパ、おもしろい?」とキョトンとした顔で急に聞いてきたぐらいです

あの笑いはどう説明すればいいのか

喩えて話すなら・・・

私は無くしたメガネを探しに、至る所に行きました

色々な本を読み、色々な人の話を聞き、色々な学びを得ました

けどまだ、私のメガネは見つかりませんでした

探しても探しても、見つからない

全てに絶望し、全てを手放そうとした時、

私は、今この瞬間、その存在を明確に経験できる唯一の存在である身体感覚に全てを馴染ませ、不意に気づいたのです

自分はずっと、メガネをしていたことに!(笑)

おいー!なんだよー!おれずっと、メガネしてたんじゃん!(笑)

という、笑い

全てが単なる遊戯であったという笑い

自分の幻想に対する笑い

その幻想の中に存在していた自己と、メガネに対する笑い

そんな全てに、拍子抜けする笑いだったのです

そしてこのプロセスは、仏教の十牛図ともどこか似ています

さて私は、この記事の最初にバタイユの話を挙げました

これには理由があります

実はバタイユが「笑い」に至高性を見出していたのです

以下の短めな論文を読んだとき、驚きました

私に起きた笑いが、克明と描写されているように思えたからです

以下はこの論文を読んでの私自身の理解です(バタイユが真に言いたかったことかは知りません)

バタイユは、自己否定もなく、自分の外側に絶対者や意味を必要としない状態を「本当の自主性(自立・自由)」と定義します

逆にいうと、例えば、「神のため」とか「国家のため」とか「会社のため」とか「成功のため」とか「パーパスのため」とか「SDGsのため」とか「悟りのため」とか、それがなんであれ、そういった絶対者や意味を自分の外に置くこと、それは本当の自主性とは言えないわけです

なぜならそういった神、国家、会社、成功、パーパス、SDGs、悟りといった自分の外にある絶対者(絶対性)によって、意味が作り出され、自己が規定されているからです。つまりはそういった外的絶対者に自分が絡め取られていき、自己は自己の原因と目的を外に委ねることで自由と自立を失います

バタイユが生きた時代は、世界大戦の時代です。「国家のため」という意味に人間が巻き込まれ、「国民」というロールに埋没していく姿(つまりは全体主義への流れ)を目の当たりする中での危機感があったのでしょう

さて、自分の外に絶対者を作り、そこに向かおうとする自己が行うのは、「自己否定」です

自己の外にある絶対者を希求していくためには、現存在である自己のありのままを否定する必要があります

「ああいう風に(絶対者に)なるために、私は努力しないと(自己を否定しないと)いけない」となるわけです

神、国家、会社、成功、パーパス、SDGs、悟り・・・

形は変えども常に人間は、自分の外に絶対者を作ります

そしてその絶対者に至っていない自己を否定し、その絶対者に自分自身がなろうともがき続けるわけです(もはやこれ自体が人間の「生」とすら言えそう)

私もそうでした

私は自分の外に、答えを探していた

そしてその答えに近いように見える存在を絶対者として設定し、自己を否定し、そこに向かうために努力をしていた

しかし、ここで私に、何が起きたのか

自己否定で至ろうとしていたあらゆる絶対者も、どこまでいっても全体を織りなす部分でしかなったということへの気づきです

そしてその気づきの地点で、自己も、絶対者も同時に、単なる部分へと失墜するのです

そう、私も、絶対者も、両方とも単なる部分でしかなかった

その事実に頭ではなく、身体感覚での理解が起こること

その時、部分へと失墜した絶対者と自己そのもの両方に対する笑いが湧き起こるのです

笑いは、意図を超えて起こります

笑いたくて笑っているのは、本当の笑いではありません(それは単に、社会適応の手段です)

笑いは、笑ってはいけないはずなのになぜか笑ってしまうから、笑いなのです

本当の笑いは意図を超えています。そこにバタイユは、人間の意図を超えた至高性を見出していたのだと思います

どこまでいっても部分でしかなかった絶対者と、そんな絶対的存在を求め自己否定をしていた自己も部分でしかないし、どれだけ自己否定をしてどこまでいっても部分でしかない

こうして両者が同時に失墜し、その失墜した両者に対して湧き起こる笑い

その時、自己も、絶対者も、共に失墜し笑われるという同じ存在として、初めて溶け合うのです

自己否定を繰り返す自己と、絶対者

それは常に別れていました

しかし、至高性としての笑いが起こる時、自己も笑われ、絶対者も笑われる

こうして笑われる単なる部分として、両者は初めて溶け合い、その区別はなくなるのです

つまり、「おい、なんだよ(笑)おれも、おまえも、みんな、ただ、生きてるだけじゃねーか(笑)」となるのです

こうして生は、喜劇となるのです

さて、絶対者も自己も、共に部分に失墜し、笑われる形で溶け合うと何が起こるのか

自己はもはや、自己の外に絶対者を置かなくなります

自己の外に絶対者を置かなくなるということは、外の何かを希求する必要もなくなるため、自己否定も起こり得ません

自己否定もなく、自分の外に絶対者も、意味も、必要となくなる

これはつまり、自己が自身の原因と目的を自分自身の中にのみ持つということです

つまりそれこそが、自分の外に何も必要としない「本当の自主性(自由・自立)」であると、バタイユは言いたいのだと思います

こうして私は、この気づきと笑いと共に、自分自身で立ち、生きていくわけです

バタイユのテーマは、「エロ」と「悪」と「笑い」です

社会的タブーに真正面から挑んだバタイユだからこそ、見出した何かがあった

そんなバタイユに変容の過程で出逢いながら、最後、「なーんだ、みんなただ、生きてるだけじゃん(笑)なんでもいいんじゃん(笑)」と自分も他者も世界も全てが部分に失墜し、共に溶け合う形で、笑いが止まらなくなるこの気づき

その最後の笑いまで、至高性という形でバタイユが捉えようとしていたというこの流れを思うと、妙にジョルジュ・バタイユとの縁を感じてしまうのである

バタイユさん、あざした

結構、イケメン

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