佐藤

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最近の記事

神話的 ──WrestleMania40の星辰図像

WrestleMania 40のメインイベントたるコーディ・ローズとローマン・レインズのNo DQ戦とは、偽なるユピテルを廃し真なるユピテルを擁立する試合であった。奈辺に依るか。星辰図像を鑑みつつ論ずる。    そもそもWrestleMania 40とは、四十回目の同大会なるを忘れる莫かれ。四十とは、新旧聖書に於ける一世代である。ヘブライの民は約束の他を信じ四十年もの間流浪した。ダビデやソロモンの治世は四十年だった。他にもある。四十日や四十年は聖書のオブセッションだ。WWE

    • Dr. Hagens讚

       人體の内部構造を衆目に曝したDr. Hagensに就きて。何爲、其の貴なる医者をスコラ學の正当に位置する神學者として言祝ぐを看ず。羞摩羞し、羞摩羞しや。死體を滿たす液體の存在を識りながらSt. Thomasと較べずとは況や。  基教の復活概念の殊に物質的なるは凄まじ。最後の審判は霊的存在の裁かるるに在らず。墓より起き上がりつるcorpusの裁かるるに在り。而して甦へる肢體は如何なる姿か。St. Thomas曰く、在る可き姿にて。二十一世紀に於いて諸國の草民に知らぬ者の無い

      • 神経症的

        犯せ。笑顔で迫るクソゴミは全て犯せ。そこから人間解放は始まる。犯すべきはプリンセスなどのカワイラシーものに限らない。選挙ポスターも犯せ。我等は笑顔の奥が無いクソッタレ顔面を腫れ上がらせ、涙を流させる。  美=倫理の時代だ。しかし、エシカル消費と言いながら生ゴミのような菓子パン工場を爆破する気概を持つ人間はいない。美=倫理の時代だ。しかし、産業廃棄物生産工場のようなファミレスを薙ぎ倒す人間はいない。  我等の敵は反-美食と言い換えてもよい。  生ゴミ菓子パンと鳥の餌オート

        • 傷と刃物の数学的諸原則

           コロンブスのアメリカ上陸以降の西洋とは武器軟膏の時代であり、魔術師達の跋扈する時代である。そして、武器軟膏の数学的諸原則(プリンキピア)の繦は未だに青い地球を掴んで離さない。  武器軟膏とは錬金術師兼科学者ヘルモントの名と共に語られる理論だ。刃物で出来た刺し傷があれば、刺した刃物に軟膏を塗る。そうすると刃物と傷の間の対応関係から刺し傷は治癒する。非科学の典型としてフロギストンと共に蚩蚩たるべき似非理論とされている。  問題はこの猥雑な塗薬の数学的諸原則が天体と天体の間で

        神話的 ──WrestleMania40の星辰図像

          トラックに轢かれて脳が飛び出る女児

           メルヘンとは巌谷國士が力説し、我々の深層心理に巣食うとされるドロドロとした物語世界に他ならない。蓋し、赤ずきんのような物語化が為され尽くしたメルヘンや、それらに都会の事象を当て嵌めて形成した都会のメルヘンは語られども、郊外のメルヘンは語られていない。郊外のメルヘンと呼べども猶、実態を掴めてない。それは教習所のメルヘンだ。  教習所の教官からこんな話をされたのは私だけではなかろう。幼稚園の送迎バスから降りた我が子を反対車線から呼ぶ母親。幼女は車道を走る。トラックに轢かれる。

          トラックに轢かれて脳が飛び出る女児

          なんだってアナやエルサをバチボコに犯しちゃダメなんだい?

           仕事の用事で、勤務開始時間には東京駅の京葉線に続く長い長い通路を歩いていた。 check!「リストカットや自傷の傷跡を消す」ことを謳う病院の広告 check!夢の国へと向かうであろう人物群    以上から演繹的に考えるのであれば、夢の国では自傷によって生じた傷跡は許可されていない。もちろん、自傷によるものでなくとも、全ての生々しい傷跡は許可されていないのだろう。苦しみ?痛み?飢え?そんなものは許可されていない。  DO NOT STARVE PLEASE?  うっせ

          なんだってアナやエルサをバチボコに犯しちゃダメなんだい?

          そのモネとやらを電飾ブッ刺して綺麗にしてやろうかつってんだろ

           アートを憎んでいる。明確に。全部パチモンだから。キモいから。  アートだ芸術だとゴミ大衆は豚小屋たるSNSで鳴くが、そんなゴミどもに先んじてケツイキありき。こんなデケエクソひり出した暁には、テメエのクソお袋は三日三晩ケツでイキ続けたんだろうよ──詩篇69章69節  岡本太郎は足元に積み上げられた小さな石の山に芸術を見、石子順造は河原に転がる石に芸術を見た。石をクソで汚すな瀆神者ども。芸術というバカデケエクソの前にもケツイキありき。こんなデケエのひり出した暁にはクソマンコ

          そのモネとやらを電飾ブッ刺して綺麗にしてやろうかつってんだろ

          地獄行き?はい!お願いしまーす!

           何でも天国にいる。その地では地上の言語が話されておらず、ポリティカルな観点で正しい天上の言語が豊かに響いている。自分にその文法は理解ができないが、ニガーやイエローモンキーにあたる単語が存在しないことだけは理解ができた。そうそう、この地が持続可能なことは言うまでもなく…  という夢を見た。  天国というものは概してある程度世俗から離れた人間の約束の地だが、その地の行楽といったら挿入するたびに処女に戻る少女とセックスし放題というイスラムの天国観のように、俗極まる。故に俗世に

          地獄行き?はい!お願いしまーす!

          世紀末プレイステーションバロック講義

           大抵のディケイド単位のヒヒョーは信じていないが、初代プレイステーションの時代というものはある。断じてミレニアムと言ってはいけない。プレイステーションの時代なのだ。  Mylene Farmerの「プレイステーションの」アルバムを聴いてみよう。Mylenium Tourだ。失敬、早速ミレニアムと言ってしまった。プレイステーション的ハイライト(?)は2曲目のL'amour Naissantだろう。イントロの安っぽいホーンサウンドで僕らはポリゴン調のテクスチャーの世界に連れ戻さ

          世紀末プレイステーションバロック講義

          波打際の象徴主義者

           海に関する展示を見た。とある美術館の常設展だが、随所にボードレールやらランボーやらの詩句が挿入される、否定的な意味でおしゃれなだけの展示であった…はずだった。失望は裏切られた。その展示の冒頭、我々はボードレールの『海と人』を目に焼き付けさせられる。捻りは無い。しかし、訳者が上田敏である、これは何を意味するか。つまり、この詩句がどのような詩集に収められたものなのか。お分かりだろう。その名を《海潮音》と云う。日本の象徴主義受容に於ける最大の功績は、波濤の音の意で名付けられている

          波打際の象徴主義者

          なりあぐね

           なりあぐねたこと、つまりなっていないこと。それはなっていることよりも物語の一要素としての強度を持つのではないかという気分だ。  近頃はベティ・ペイジの伝記ビジュアル本を読んでいる。彼女が裏マリリン・モンローと呼ばれる所以は、マリリンが孤児であるのに対してベティが家族と共に貧しかった点にも認められ得るだろう。それは今は宜しい。重要な点は、誕生の瞬間だ。1923年4月21日の午後11時、彼女の両親が映画館で映画を観ていた際、予定よりも早く母親が産気付いた。すぐに何ブロックか離

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          神聖な反復 極寒の地の神秘主義者について

           今日は午後から絶え間なくスクリャービンを聴いていた。ロマン派作曲家としてではなく神秘主義作曲家としてのスクリャービンだ。聖なる詩はかなりロマン派的な要素があるだろう。それにしても、この作曲家の編み出す神秘交響曲は、往来を繰り返す波濤が徐々に制御不可能となり、最終的には世を神聖な物質で満たし、その光で均質化するような印象がある。  均質化といえば、今日聴いたアルバムのジャケットはミハイル・ヴルーベリの熾天使を描いた作品だ。ヴルーベリもまた、極寒の地の神秘主義者だ。その作品は

          神聖な反復 極寒の地の神秘主義者について

          表で示すことの耽美主義

           耽美的な文学作品とは何か。表である。語句が示す忌々しい意味など蟄居していろと言わんばかりの、修辞の軽やかな戯れによって、この目を滑り抜けていくような背徳は、極北地点にて表に羽化する。  意味は必要不可欠な要素ではない。そう決めて書いた文章を後ほど見返すと、文字が上滑りしていく。人間の天籟の性なのだろうか。表面のみが口を開き、雄弁に語り続ける。その奥に意味があるとしても、解釈を誘う意味という名の快楽の宮殿の守衛として言葉は語り続ける。意味の有無は耽美か否かに関わる。意味が無

          表で示すことの耽美主義

          「サトゥルナリア!」

           Marilyn Manson、言わずと知れたアンチクライスト・スーパースターである。彼の『Heaven Upside Down』収録の《Saturnalia》が含むアンチクライスト・スーパースターとしての自覚やジギー・スターダストへの憧憬は見直されてもいいんじゃないかと思い始めた。    ここからSaturnaliaはサトゥルナリアと読む。サトゥルナリア祭というものが古代ローマにはあった。簡単に説明すると、毎年クリスマスぐらいの時期に催される権力転覆系のお祭りだ。罪人の中か

          「サトゥルナリア!」

          高潔は禁欲にのみ宿る ブルターニュ-見立て絵象徴主義の低俗とルドンの高潔展について

           国立西洋美術館は、悪ノリ半分でこの展覧会を企画してくれたのだろう。画家の内面の神秘を感じて悦に浸っている豚どもを壮大に皮肉るように観光地としてのブルターニュを提示し、その後は観光地を神秘の舞台に変えるという糞尿の如き作品を最後まで展示していた。  そう、ブルターニュは観光地なのだ。観光地で神秘が見れると思うとは、得したつもりになれるポイ活的な現代人の観光を、下劣な画家どもは百年以上前に行っていたことになる。詩人、そして芸術家は「今後ありそうなこと」を描くとはこのこと。 古

          高潔は禁欲にのみ宿る ブルターニュ-見立て絵象徴主義の低俗とルドンの高潔展について

          本音と建前 平安と鎌倉におけるUFO現象の断絶に関する覚書

           なんであれ断絶によって語るべきではない。大政奉還を宣言からの明治時代になった瞬間に「いっせーの!」でお侍さん方が一斉にちょんまげを切ったわけでもなければブルネレスキの前後で美術の本質が変わったわけでもない。  さすがにエピステーメーみたいなカッチョイー言葉を使って断絶の歴史を語られたら「そうなんですね」と納得してしまうかもしれないが、それでも表現がカッチョイーだけなのではとの思いが拭いきれない。  近代ってそういうものだからさ!中世はみんな神への信仰に生きてたからさ!写

          本音と建前 平安と鎌倉におけるUFO現象の断絶に関する覚書