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高潔は禁欲にのみ宿る ブルターニュ-見立て絵象徴主義の低俗とルドンの高潔展について

 国立西洋美術館は、悪ノリ半分でこの展覧会を企画してくれたのだろう。画家の内面の神秘を感じて悦に浸っている豚どもを壮大に皮肉るように観光地としてのブルターニュを提示し、その後は観光地を神秘の舞台に変えるという糞尿の如き作品を最後まで展示していた。

 そう、ブルターニュは観光地なのだ。観光地で神秘が見れると思うとは、得したつもりになれるポイ活的な現代人の観光を、下劣な画家どもは百年以上前に行っていたことになる。詩人、そして芸術家は「今後ありそうなこと」を描くとはこのこと。 古代ギリシアから不変かつ普遍なのだ。

 ブーダンの低俗さは周知の通りだが、観光ビーチの天候を悪くした程度の風景画で崇高らしさを演出している作品は、汚らわしいことこの上ない。そして、ゴーギャン的な見立て絵象徴主義こそが欲深き豚が描き、欲深き豚が喜ぶ作品群のハイライトだろう。

 日本人に伝わりやすい例えをしよう。「そうだ京都行こう」というCMを画家が見たとする。画家は京都で髪を剃ったジャージ姿の壮年を目にすることだろう。彼は高僧に違いない。いや、現代の東京ではもう見られない、高僧の意思を継ぐ徳高きものなのだ。ジャージ姿だからなんだ、ここは観光地のビル街だとしても空海の修行した比叡山であり、私は彼を空海として描くのだ……

 流行らない言葉で言うならば、キッチュそのものだ。こんなもの、ブルターニュ観光を促す広告の域を出ない。しかし、画家は観光地に神秘を見続ける。欲深い画家は、自分の見ている光景が神秘に溢れたものでないと気が済まない。もちろん、描かずにはいられない。悪臭のする食物を食べずにはいられず、劣悪な脂が顔に浮く生ゴミのような人間と何が違うのだ。

 ブルターニュを神秘の地と思い続けたい欲望、神秘の地を目に入れ続けたい欲望、目に入れた光景を神秘として描きたい欲望、何気ない日常に神を見たいという厚かましい欲望……

 これがゴーギャン的象徴主義なのだ。お金が手に入るパズルゲームに夢中で齧り付く豚の如し。やはり芸術家は「今後ありそうなこと」を描く。

 ゴーギャン的象徴主義は、神秘を見たと錯覚する画家と、その画家の作品を通じて神秘を感じてしまう豚どもの共犯によって象徴主義の一派としての評価を確立した。思えば象徴主義というものが、造形的特色を抜きにした受容では「深淵を見てしまった」感によって言祝がれているに過ぎない。

 神秘を見たい画家と鑑賞者。まさに豚小屋。この世がこの世であることに耐えられない劣等人種。軟弱な脂肪に包まれた生ゴミ。こんな姿をブルターニュ展は意地悪く提示することに成功していた。最大級の賛辞に値するだろう。特に、死んだ漁師を描いた作品はサイズの問題もあって《オルナンの埋葬》がした歴史画嘲笑を象徴主義に向けてしているようにも見える。

 冒頭の観光地としてのブルターニュの提示によって、普段であれば何の含みもなくブルターニュの象徴派展として成功したであろう作品群を一気に異なるものとしてしまった。冒頭というのも肝心だろう。どんでん返しではなく、最初から見立て絵の滑稽さに目を奪われるような仕掛けである。ブルターニュ神話を崩壊させたうえで、全て見せるのだ。

 ブルターニュ神話は、無料で享受できる豚の餌のようなコンテンツによって卑しく太った豚の数の増えた現代だからこそ崩壊の様が生々しい。無理だから見ておこう、無料だから読んでおこう、無料が終わった?なんでそんなことをするんだ!ブヒブヒブヒブヒブヒ!

 こんな豚どもの中に、ただ一人だけ高潔な魂を持つ画家がいた。そう、オディロン・ルドンである。ブルターニュ展は、「ルドン展-高潔な魂」でもあった。

 観光地に何回か行っていたという事実は、隠遁者ルドンという神話を崩壊させている。神話崩壊が展覧会のテーマかは知らないが、これも良い仕事だ。しかし、この展覧会にはルドンの作品は二つしかない。それでもなお、清らかな光線の如き作品は、会場で最も輝いていた。

 ルドンは、観光地で風景の習作ばかり描いていた。つまり、観光地を聖書の世界と錯覚するような呆れた頭脳の持ち主ではなかった。神秘の世界を見たかっただろう。神秘の世界として描きたかっただろう。しかし最大の賞賛に値する高潔な画家は、ただ見えた風景を描いた。

 禁欲。ルドンの高潔な魂は、荒れ果てた豚小屋の中で次々と襲いかかる神秘の誘惑を跳ね除けた。劣悪な大気の充満したフランスに現れた聖アントニウス。

 ルドンは見える世界に象徴を求めなかった。卑しい漁師を神の子キリストになど断じ見立てない。象徴主義者としてのルドンは、「目を閉じて」いた。汚れた食物を口に含むことしか選択肢に残されていないのであれば断食をするというのだ。目に見える世界の神秘など豚に描かせれば宜しい。真のダンディーとしてのルドンは、視覚の欲望を振り切り、瞑想する。

目を閉じていない象徴主義は、キッチュである。

 ルドンは、徹底した禁欲によって視覚偏重の西洋文化をも攻撃していたのかもしれない。

 考えてみれば、大工の息子ですら神の子になれるという一発逆転神話は、YouTubeの広告にありそうな話だ。ナザレのクソッタレ以降、大工の息子が現れたのであれば神の印象が付き纏う。見える世界が神秘の世界であってほしいからだ。卑しき私たちこそが高次の存在の象徴であってほしいからだ。この世界は、神秘の世界の見立て絵であってほしいからだ。

 ルドンは、見立て絵としての世界を拒否する。ひどく苦しいだろう。なぜなら、自らの周囲を神秘に満ち溢れたものにする誘惑を断ち切ることは、世界から神秘を喪失させるからだ。目に入る世界には神秘などあるはずがない。全てが揺さぶられる。しかし画家は目を閉じた。聖なるものを念じた。キリストを描いたとしても、キリストの存在自体に宿る視覚的な瀆聖を描かずに、ただ瞼の内に宿る聖性を描いた。

 外界から閉ざされた神秘。しかしその神秘の内容は「もの」でしかない。しかし、瞼の外や部屋の外にあるものとは異なり、夢想の構造として顕現する。デゼッサントがルドンの作品を自室に飾った理由は、部屋の構造との類似によるものなのかもしれない。デゼッサントにしろ、デカダンな欲望ばかり強調されるが、彼のしていることも世俗に対しての禁欲だ。

 目を閉じることは、食べないことと同様に高貴な禁欲だ。自らに穢れを流入させないこと。このことに徹するのだ。オディロン・ルドンは殆どの人間に卑しい脂が流れ切った世界の中で的礫と光続ける高潔な魂の持ち主の一人なのだ。

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