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なりあぐね

 なりあぐねたこと、つまりなっていないこと。それはなっていることよりも物語の一要素としての強度を持つのではないかという気分だ。

 近頃はベティ・ペイジの伝記ビジュアル本を読んでいる。彼女が裏マリリン・モンローと呼ばれる所以は、マリリンが孤児であるのに対してベティが家族と共に貧しかった点にも認められ得るだろう。それは今は宜しい。重要な点は、誕生の瞬間だ。1923年4月21日の午後11時、彼女の両親が映画館で映画を観ていた際、予定よりも早く母親が産気付いた。すぐに何ブロックか離れた自宅に帰り、4月22日の午前3時に後のピンナップ・クイーンが誕生した。このことに関して関してベティは、「ほとんど映画館で産まれたのだから、私は映画が好きなのではないか」という旨を語っている。

 ほとんど映画館で産まれたということ。即ち映画館で産まれあぐねたということ。仮に映画館で産まれていたとしたら、ここまでドラマティックにはならないだろう。ふと思い出したのがトム・ウェイツ自身の語る誕生の瞬間だ。彼はタクシーの後部座席で産まれた(らしい)。そして産声として一言、「タイムズ・スクエアまで!」と発したのだ(という)。無論、産声は作り話でしかないのだが、それにしてもなぜタイムズ・スクエアで産まれたことにしなかったのだろうか。これもタイムズ・スクエアで産まれあぐねたということだ。

 ベティは自身と映画館を物語、または意味で裏付けしていたし、トムとタイムズ・スクエアにしてもそうだろう。そして勿論、僕らも彼女らとそういうものを関連付けて考えている。ただ、そういった伝記的な物語で僕らの印象に残ることは、結局のところなりあぐねであると考えたのだ。なったことよりもなりあぐねたことが大きな意味を持つのだ。

 僕らが比較的よく知るマリリンだって、どの写真を想ってもらっても構わないが、その写真になりあぐねた瞬間に、彼女の真面目さやら自己顕示欲やら、肯定的にしろ否定的にしろ物語として大きな意味を持つものが見えるのではないか。所謂影の努力というものであり裏の顔というものだ。僕らが求める伝記や物語はそういった要素ではないのか?

 なりあぐねの意味なぞ考えると、どうしてもウィーンの精神分析家が頭から離れなくなってしまう。ただ、今日はもう少しベティのとびきりの明るさを楽しもうと思う。

 

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