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神聖な反復 極寒の地の神秘主義者について

 今日は午後から絶え間なくスクリャービンを聴いていた。ロマン派作曲家としてではなく神秘主義作曲家としてのスクリャービンだ。聖なる詩はかなりロマン派的な要素があるだろう。それにしても、この作曲家の編み出す神秘交響曲は、往来を繰り返す波濤が徐々に制御不可能となり、最終的には世を神聖な物質で満たし、その光で均質化するような印象がある。

 均質化といえば、今日聴いたアルバムのジャケットはミハイル・ヴルーベリの熾天使を描いた作品だ。ヴルーベリもまた、極寒の地の神秘主義者だ。その作品は、六つの翼を持つ熾天使が画面から溢れんばかりに、溢れているかもしれない、もしくは溢れていないかもしれない、それさえ不明瞭なほど量塊の名の下で均質化された筆触によって描かれたものだ。中央に描かれている顔は画家の持つ原光景的な存在なのだろう、画集を捲れば多数目にかかる顔だ。しかし、その人物と翼や背景は平面上で並べられ、筆触によってその並列が「自然に」為されている。均質化と並列。まさに象徴主義とシュルレアリスムを一つの線で結ぶ言葉だ。異空間の重ね合わせという点で、ヴルーベリは象徴主義の方法論を体現している。

 そんな象徴主義者ヴルーベリを端から神秘主義者と呼んだのは、オカルトとも言えるような主題の作品がこの目を惹きつけて止まないからだ。聖霊の降下とでも訳そうか、その作品は、上方からの聖なる魂が十二使徒と聖母に降下するものだ。その降下の様子はバロック的な場の制定によるものとは異なる。聖なる魂は、計十三人それぞれに向かって管が伸びるように落下する。この聖霊と管こそ、思想の一形態としての「アストラル的なもの」だろう。一者から数多くの個体へと落(堕)ちていく聖性。その媒介をする星雲。新プラトン主義からメスマーを経て、麻原彰晃の脳波を伝えるヘッドギアまでを横断し得る、隠されし(オカルティックな)大流だ。

 オカルト思想、もしくは神秘主義というものは一者との合一を図るものだ。ブラフマンとの合一や、理論としてのナーガセーナの言葉を想起すると良い。その思想と新プラトン主義は、インド・ヨーロッパ語族という科学的かつ実証的なロマンによって溶接させられる。こうして西洋と東洋は根底に流れる「アストラル的なもの」によって均質化された。失敬、ここでも均質化だ。

 スクリャービンの話題に戻ろう。この作曲家もまた、「アストラル的なもの」で一者との均質化を図ろうとしていた。それも聖霊の降下を受ける使徒ではなく、聖霊や更に上の存在としてだ。このような気がしてならない。救世主たらんとしていたエピソードが有名だが、そもそも五つ目の交響曲は「プロメテ」ではないか。人類に火を与えるように、この世の個体一つ一つに自らの聖霊を流入させようとした神の姿を見なければならない。そしてその流入の手段は、歴史上のオカルティスト達の前例に漏れず、穴から挿入れるものだ。黒ミサの主題で描かれたオージーは扇情的な一例だ。交響曲第四番、法悦の詩。そしてプロメテウスの名を冠した交響曲は、流入としての法悦を主題とするに留まらず、性の快楽のように反復しながら増大する構造で聖霊を音楽の形で耳から注ぎ込む。

 このように、スクリャービンはプロメテウスであった。その源流には流入を共通語彙とする思想の存在を認めるべきだろう。そしてロマン派以降を生きる人間として、「アストラル的なもの」を自らの作品によって流入させる革命家としての芸術家であり続けた。


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