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「サトゥルナリア!」

 Marilyn Manson、言わずと知れたアンチクライスト・スーパースターである。彼の『Heaven Upside Down』収録の《Saturnalia》が含むアンチクライスト・スーパースターとしての自覚やジギー・スターダストへの憧憬は見直されてもいいんじゃないかと思い始めた。
 
 ここからSaturnaliaはサトゥルナリアと読む。サトゥルナリア祭というものが古代ローマにはあった。簡単に説明すると、毎年クリスマスぐらいの時期に催される権力転覆系のお祭りだ。罪人の中から王が選ばれ、ロバの耳をつけて王として君臨するが、最後には儀礼的に参加者たちによって殺される。もちろん、キリストが「ユダヤの王w」と罵られて棘の冠を被ったりキリスト教関連のロバ図像を思い起こすのは自然だ。しかし、キリスト教の歴史では捉えきれない、長い長いスパンのシンボリズムがあるのだ。

 時は既に21世紀。神は死んだと叫んだ人が死んでから200年の年月が経っている。そんな時代にサブカルチャー図像をキリスト教図像で説明する気はない。ただ、そのキリスト教図像の歴史など取るに足らない長さの持続があるサトゥルナリアのシンボリズムで、更に詳しく言えば崇拝の原型の一つであるロバのシンボリズムで、先史から「アンチクライスト」までを貫くのだ。

 一般化しよう。重要な点は一つ。道化としての滑稽な贋王が祭りの参加者によって殺されるということだ。

 我々はここに、まずはジギー・スターダストを見なければいけない。20世紀の贋王は宗教的な概念のもとでしか考えられないというわけではない。派手すぎる艶やかなタイツ姿でエレキギターをかき鳴らし、子供たちのスターになる。だが子供たちはこの男を殺す。そして子供たちの中から新しいジギー・スターダストが現れ、彼はエレキギターをかき鳴らす。以下、反復……

 そう、反復するのだ。現代日本でサトゥルナリア祭をやっている奴はいないとは思うが、この祭りはキリストが産まれるか否か、もちろんローマ帝国の皇帝が誰になるかは関係なく続く。早い話が世が終わるまで罪人の中から王が選ばれて殺されてという螺旋階段は続く。この無限の時間の中の1972年あたりに焦点を合わせるとサトゥルナリア祭的なプロットのコンセプトで音楽を制作し、自らが作り出した贋王を演じたDavid Bowieが顔を覗かせるというわけだ。

 キリスト教の図像を見ると、大抵のものに両義的な意味が割り振られていることに気づく。そして私たちはこの両義的な意味から時と場合に合わせて一つの意味を選択する。この捩れは何だろうか。何故矛盾するような意味が一つのものに宿るのか。それはキリスト教の親殺し的性格によって新たな意味が付け加えられた後の世界に生きているからだ。それだけ。

 サトゥルナリア祭を思い出してほしい。罪人がロバの耳をつけて贋王として、滑稽な道化の王として降臨する。なぜ滑稽なのだろうか。ロバの耳をつけたから?否。ロバの耳がついているのに、それをつけた人物が卑しいからだ。

 ロバは決して滑稽な動物ではなかった。崇拝の原型の一つであった。サトゥルナリア祭の時代よりも遥か昔から王であり神である動物であった。そんな神聖な動物の耳を卑しい身体がつけているのだ。なぜ罪人が王として振る舞えるのか、理由は「ロバの耳をつけているから」だ。王や神、つまりこの世の主としてのロバ。しかし私たちはこのロバの耳をつけて無惨に殺された人たちの後の世を生きている。そして同じくサトゥルナリア後の世界を生き、異教的なものを排除するキリスト教世界は、これにネガティブな意味を定着させた。これが私たちの知る阿保としてのロバだ。

 確実に神や王の類ではない人間がそうした概念と結びつけられている。もしくはその神や王が道化として転覆を計る、例えばアンチクライスト・スーパースターとして演説台の上で聖典を破いたり、HeavenをUpside Downとかしていたらそれはシンボルとしてのロバの派生概念なのだ。そしてこのアンチクライストは、予想外であったが故にショットガンの火薬の匂いで終わったNirvanaの立場に、つまり私たちの王に、意識的になろうとした男だったのだ。

 繰り返されるサトゥルナリア祭。その王としてのDavid BowieとMarilyn Manson。ジギー・スターダストを殺して新たなロックスターになった男から数えて何代目のジギー・スターダストだろうか。ちなみにマンソンはミュージック・ビデオの中でよく死ぬ。
 
 ここまで読んだらもうお分かりだろう。エミール・マールの示した、エジプトからの影響を僅かに指摘するのみに留まるキリスト教図像としてのシンボリズムでは語ることのできない原型を、ロックの世界でDavid Bowieが反復してみせた。そしてMarilyn Mansonは、自らがその反復を演じつつも、ボウイを極力意識させない形を貫いてきた。マンソンとボウイの前後関係を巡る錯綜した思惑は、シジスモンディの起用について考慮すれば良いだろう。絶対に先祖になりたくないボウイ、絶対にボウイの子孫だと勘づかれたくないマンソン。影響は確実だが、避けあっていた。しかし時は過ぎ、一方の永遠の沈黙をもう一方が叫び声で切り開いた。

 そう、黒い星が昇った。David Bowieは今度こそ死んだのだ。そしてMarilyn Mansonはこう叫ぶ。「サトゥルナリア!」

 

 


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