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表で示すことの耽美主義

 耽美的な文学作品とは何か。表である。語句が示す忌々しい意味など蟄居していろと言わんばかりの、修辞の軽やかな戯れによって、この目を滑り抜けていくような背徳は、極北地点にて表に羽化する。

 意味は必要不可欠な要素ではない。そう決めて書いた文章を後ほど見返すと、文字が上滑りしていく。人間の天籟の性なのだろうか。表面のみが口を開き、雄弁に語り続ける。その奥に意味があるとしても、解釈を誘う意味という名の快楽の宮殿の守衛として言葉は語り続ける。意味の有無は耽美か否かに関わる。意味が無いのであれば、美に耽る必要はない。ただ美があるのみだ。耽美主義者は、意味があるにも関わらず、意味の手前で猥雑な戯れをするのだ。読者は、戯れの前では言語の成層圏を命が尽き果てるまで滑空させられているに等しい。それは図々しくも世の全てに意味を見出し続けるうちに自家中毒を患った憐れな読者を苦しませる。しかし、哀恤の念を少しでも見せてはならない。意味中毒の豚は、彼自身の脂身の中で煮込んでしまうべきだ。高潔なる精神は、憐れみすら禁欲の矛先とする。

 憐れみすら禁ずれば、ある種サディスティックと言えるのではないか?そう、サディスティック。マルキ・ド・サドは彼の人工楽園を、表で示した犠牲者の数で描画するに至った。ソドムとしての閉ざされた城ではこの上ない悦楽が行われただろう。実際、凄惨な様は描写されている。しかしそれも貴き侯爵の戯れである。登場人物の身体的特徴にしてもそうだ。法院長の「後ろ」の堆い汚穢を思えばよい。逸物の大きさ、射精回数、肢体の均整、あるいは歪さ。侯爵にとっては全てが言語の表面の美しさのために存在している。無論、行為も。あり得るとは到底思えないような人物が、あり得るとは到底思えないような行為に耽る。

 滑空させつつも、このテクスチャーは読者の目を奪う。意味中毒患者の豚ではなく、ある程度まで読める人間であればまだまだ楽園の花々を眺めたいと思うだろう。しかし、ただ気高い侯爵は、突然花の数を表にして突き放す。その表は、もはや残酷な宴会の詳細は省き、その結果のみを書く。我々は侯爵の掌の上で転がされてしまった。しかし、侯爵は断じて読者を罠にかけたいのみの悪徳貴族ではない。我々に意味を伝えたいという欲望を、我々と結びつきたいという欲望をも禁じている。表は、ソドムの住人の身体的特徴のように、綴ることそのものの遊戯性や美のみを表出する。否、蓋し上滑りするような身体の描写や文章の構造の行き着く先が表なのだ。侯爵はただ書く。修辞の行き着いた先にある非-修辞によって。そして貴族的な趣味のもとで綴り織られた繻子の段通を完成させるのだ。なんと高貴な人なのだろう。バスティーユの牢獄や精神病院の牢獄の中に座していることを是としているようではないか。そもそも、ソドムの城に唯一繋がる橋を落としたのは彼その人ということを忘れてはならない!

 おお!高潔なる禁欲者!涙ぐましいまでの貴族!高潔なるサド侯爵!

 この真の貴族の精神は凡そ一世紀の時を超えてジョリス=カルル・ユイスマンスにも宿る。彼の文章は、ある種の切り貼りによって生成されている側面がある。そしてその側面は物語の優越を否定する。徹底的に記述し尽くすこと。何処からか切り取った文章を貼り付けること。この二つの外科的処置は、サド侯爵の人物や凄惨な行為の描写で行っていたことと等しい。そう、ただ貴い戯れなのだ。そして、近代社会に蔓延る脂や汚穢を恐れ、攻撃を続けた高潔な隠遁者も、表に至る。自らの理想であろう聖女についての作品は、聖女の身体が糜爛していくという記述を、それ自体の為に続ける。ソドムで痛めつけられた身体や悪漢たちの記述のように。そして腐敗が進み、聖女がこの世から去ると、作品はソドムの結末と同じ様相を呈す。穢れた世俗からかけ離れた場所にいる清い聖人たちを、表にするのである。

 記述の連なりという背徳。ユイスマンスの場合は、一貫して自然主義の文学者だったことに起因するのだろう。自然主義からデカダン、そして神秘主義まで主題が及ぶ彼の様式を「痛ましい身体や、唾棄すべき卑しさを書くこと」とすれば、自然主義から離れてはいない。しかし、ユイスマンスの意識が聖女の苦悩ではなく、皮膚から出た神経や夭々たる潰瘍に向いていることは明らかであろう。あまりにも様式の上で自然主義であるが故に、肉や骨や神経についての描写を綴れ織りにすることに耽っているのだ。故にユイスマンスも、サド侯爵と同様に、本流自然主義文学者の御涙頂戴的意味中毒の卑しさではなく、清廉な言葉の品評会を取り仕切る。伽藍で拝まれる対象ではなく、美術館で見られる対象としての言葉は、表によって完成する。

 私たちは、このような高潔な精神の持ち主による繻子のテクスチャーによって、まずは横転、そして輾転させられる。高潔な精神がなければこの美のみに耽る繻子を織ることはできない。そしてこの繻子の織物の最も貴い姿が表だ。サド、そしてユイスマンスはそれに気付いていた。彼らは紛うことなき耽美主義者だ。そして、この繻子の段通の上で、思い切り転ぶことを選ぶ者もまた耽美主義者と言えるだろう。

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