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波打際の象徴主義者

 海に関する展示を見た。とある美術館の常設展だが、随所にボードレールやらランボーやらの詩句が挿入される、否定的な意味でおしゃれなだけの展示であった…はずだった。失望は裏切られた。その展示の冒頭、我々はボードレールの『海と人』を目に焼き付けさせられる。捻りは無い。しかし、訳者が上田敏である、これは何を意味するか。つまり、この詩句がどのような詩集に収められたものなのか。お分かりだろう。その名を《海潮音》と云う。日本の象徴主義受容に於ける最大の功績は、波濤の音の意で名付けられている。「上田敏訳」、この四文字で情景は一変する。小林秀雄の訳による使い古された永遠も、詩人が「また見つけて」しまったと語る瞬間の皎皎たる的礫の風格を帯びる。

 広くフューズリから超現実主義者までもが含有される(更に広い場合も珍しくない)象徴主義に一つのマニフェストを当てはめるとしたら、「現実の相対化」になるだろう。自身の中にあって自我ではないものとしての星辰そして星辰的性格を持った動物磁気とその派生物としての性欲動の理論。フロイトと超現実主義者の関係を新プラトン主義まで遡る話は別稿に譲るとしよう。しかし、自身の性欲動であっても悪夢に出てくる淫魔であっても、はたまた雑多な素材をブリコラージュして描かれたサロメの絵画作品であっても、主題は我々の意識が捉える世界とは別の世界の秩序であるとは断言できそうだ。現実の秩序を相対化して、全く異なる秩序からなる世界を創造する。この独立した象徴的世界と我々の現実的世界の狭間の象徴としての海がここに顕現する。象徴派詩人は言葉を用いて濤声を立て、外側にある異世界の橋渡しをするのだ。《海潮音》に於ける上田敏の訳が七五調であり、声に出して読むことを前提にしていることを我々は片時も忘れてはならない。

 現実世界と象徴世界の連絡役としての象徴主義者は、人類史的な意味のシャーマンやその派生物としの王を想起させる。内部と外部の弁証法の行き着く先であるシャーマンは共同体の中の存在だ。しかし、共同体の中にありながらも共同体の外にある霊的世界と交流し、特権的な地位を得る。シャーマニズムは特殊技能だ。誰もが霊的世界と交流可能なわけではない。故に外部世界との交流は、内部に於いて中心的であるシャーマンによって独占される。これが王であるならば外国との交流を関税の操作や自身の訪問、そして相手国の王の招待等によって独占するし、現代に於いても政治的中心の持つ外部の独占という機能は全く変わらない。そして象徴主義者は、俗極まる巴里のアトリエに位置しながら同時に高潔極まる象徴世界に位置する。まさにシャーマンや王と同じ存在なのだ。中心かつ周縁としての象徴主義者なのだ。

 この辺りで話を畳もう。現実世界に位置しながら同時に象徴世界との周縁の海に波を立てる限りに於いて、象徴主義者はシャーマンであり、示唆的に言うならば魔術師に他ならない。ならば、超現実主義者の首領が魔術的芸術と叫んだ意味を考えなければならないだろう。象徴主義者こそが我々の王なのだ。


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