そのモネとやらを電飾ブッ刺して綺麗にしてやろうかつってんだろ

 アートを憎んでいる。明確に。全部パチモンだから。キモいから。

 アートだ芸術だとゴミ大衆は豚小屋たるSNSで鳴くが、そんなゴミどもに先んじてケツイキありき。こんなデケエクソひり出した暁には、テメエのクソお袋は三日三晩ケツでイキ続けたんだろうよ──詩篇69章69節

 岡本太郎は足元に積み上げられた小さな石の山に芸術を見、石子順造は河原に転がる石に芸術を見た。石をクソで汚すな瀆神者ども。芸術というバカデケエクソの前にもケツイキありき。こんなデケエのひり出した暁にはクソマンコは三日三晩ケツでイキ続けたんだろうよ──詩篇69章70節

 モネとかダヴィンチとか言祝ぐゴミと比べると、生きているこの世界を祝祭化せんとする岡本太郎や石子順造の誠実さが際立つが、それも相対的なこと。芸術という祝詞が無ければ石を見ることが出来なかった。つまり貧弱。これだけ言ってもなお、テメエらクソどもよりかなりマシなのだ。

 無論、岡本太郎に流れるバタイユの「無の血」を忘れたわけではない。ただ、バタイユ的な汚穢への眼差しは、ロマン主義的な崇高の名の下で酷を美へと変換する視線と結びつけば全てに無や死を見、祝祭となりうる。岡本太郎やバタイユを精読すればそうではないのかもしれないが、現にこいつらに影響受けてる奴らって反-美を気持ちよく加工して祝祭空間を日常に見出してるだけじゃんw非日常を日常から得ようとする下品な豚どもめ。

 さて、そう考えると人間の術を言祝ぐことから逃走可能な行為が無いように見える。無い。だからこそ、まだ岡本太郎や石子順造を信じている。「芸術に過ぎないから」と作品(笑)を廃棄するその瞬間の岡本太郎のたくましさ、そして芸術と非-芸術の対立を無化する石子順造のキッチュ狂い。

 キッチュ。漁村のデコトラにこそ人間の生の真実がある。そこに非-芸術としての人間の術を認めることが出来るが、その方法はウキヨエ等の芸術をモチーフにした、電飾のイリンクスによるものだ。芸術でなく非-芸術でもない。全ての問いは「綺麗なキラキラ」の前で愚かだ。人間の術でありながら人間の術の「ボロ」たること。全てに中指を立てるが、中指を立てる対象はいない。これが人間のあるべき姿だ。ただ全方向に拡散する衝撃波が真の人間なのだ。先人が人間を如何に名付けたか。「爆発」。

 全てに中指を突き立てろ。全ての芸術に電飾をブッ刺して生き返らせろ。おれは突き立てられた中指の放つ衝撃波に過ぎない。今度はテメエの頭に電飾をブッ刺してやる。人間の復活だ──マタイ福音書666章666節


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