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「バグ」と「余白」のない人生なんて、最初からすべてのジョブをマスターしているファイナルファンタジーみたいなものだ。

なにを言いたいのかはわからない。書いているものも文章としてうまくつながっているか不明だ。けれど、いま感じていることを書いておきたい。

外出を控えた中での暮らしは、それはそれで楽しい部分もある。出会う機会のなかったであろう人に出会って交流が深まっているし、全国の友人や知り合いがこの機会だからこそつながって、なにかをやっていこうとしている。イノベーションや発明というものは、こういうタイミングにこそ起こっていくのだろうと思う。

けれど、元来ひとところに居続けることが難しい(基本的にはとても動き回りたい)自分としては、移動が制限されていて困っている部分も大きい。なので最近は、公園に行ったり散歩をしたりして、リフレッシュできる機会をつくるようにしている。

それでも、この日常から本当はなにが奪われたのか、あるいは自分はなにを失ってしまったのか、まだあまり理解できずにいた。



先日、家の近所を散歩していた。すると、目の前を歩いていたおじさんのポッケからはらりと千円札が落ちた。

「お金、落としましたよ」

ぼくがそう言うと、おじさんはそれに気づいて落としたお金を拾った。

「にいちゃん、ありがとう」

おじさんは、お礼の言葉と笑顔をぼくに投げ返してくれた。



「ああ、これか」

そう思って、ぼくはしばらく、その感覚を噛み締めていた。



偶然に起こってしまうミス、あるいは「バグ」。社会からの想定を超えたその偶然の問いかけに対して、どう応答していくのか。無視するのか、声をかけるのか、自分のものにするのか(犯罪なのでできれば避けたい)、それともほかのなにかがあるのか。ぼくはこの部分に人生のおもしろさを感じているのだ。

どれだけ思考しているか(思考を深めているか)ということと、いまこの瞬間の問いに応えられるかどうかというのは、また別の話なのだ。

「場づくり」の本質は、問いというバグだ。あるいは、バグという問いだ。それがあってはじめて関係性が編まれていく。問いと関係性は分かちがたくつながっている。



過去にどこかで書いたことがある。数年前、祖父が危篤状態になって、病院で入院していた。ぼくは、お見舞いに行った際に、体の動かない彼のお願いをいろいろと聞いていた。

「カーテン、閉めて」
「ゴミ、捨てて」
「飲み物、とって」

その、簡単な依頼に対して、ぼくは淡々と応えていく。

そのときに、ふと、ぼくは仕事の本質に気がついた。いや、人生の本質と言っていいかもしれない。そんなことに気がついたのだ。

それは「できないことがあるからこそ、関わりをつくることができる」ということだ。「できること」だけではそれは成り立たない。「できない」部分に「できる」が入り込んでいく。そうして関わりができることで「ありがとう」が生まれる。「ありがとう」という言葉は関係性の賜物である。これこそが生きていくことの本質である、と。

そして、それはやはり即時的、瞬間的に行われる。いま、この瞬間に問われたことに対して、自分がどのようなアンサーを返すのか。それはある種のゲームのようなものでもあって、回答の如何によってその後のストーリーが変わっていく。この刹那の集合体が、人生というものなのだ。



ぼくは、刹那を生きられているだろうか。日々、時事刻々と自分の身に降りかかってくる想定し得ない「問い」や「バグ」に対して、瞬時に判断とリアクションができているだろうか。

いや、違う。いまこの時代は、この時期は、その刹那が奪われてしまっているのかもしれない。だからこそ、生きているリアリティが少し薄まっているのかもしれない。そういう意味で考えると「ミス」や「バグ」、「余白」こそが人生をより濃密にしてくれているのかもしれない、と思う。

オンライン、オフラインが今までより混濁していく社会に入っていく。そして、オフラインの出会いというものは、今までよりも貴重、希少なものになっていくようにも思える。しかし、その中でもいかに「刹那」を感じることができるか。ぼくはその刹那で、人生のおもしろさを噛みしめたい。

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