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生活すること

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生きるって何だろう?それは生活することなのではないだろうか────30才で伊東市にある海の街へ移住して感じたことを書いています。
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見えている世界への問いかけ

見えている世界への問いかけ

私にとって絵が描けるのは当たり前なことであり、なぜ描けるのか説明できないものでもある。漫画家になりたかったから描く絵はいつも空想上の人物ばかりで、模写をしていた記憶はほぼない。それでもなぜ今、風景画が描けているのか。それは、これまで脳内で映し出される空想上の映像を現実世界へ持ってくることで鍛えられた画力と、私が現実世界で見えるようになった視点が合わさり、風景画という形になっていると予測している。

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芸術は感想の押し売りではない

芸術は感想の押し売りではない

どこにいるのか、毎朝自分と確認する。今は真ん中にいるらしい。とても平穏で、静かな世界が流れている。真ん中の世界を知ったのはこの街へ来てからだからまだまだ新鮮で、知らないことも多い。家事や事務作業などのできることは増えるけれど、感情は少し鈍くなっている気がする。薬を飲むことによって真ん中を維持させて、感情が振り切れないようにしているのだからそりゃそうか。真ん中にいると創作ができなくなってしまう不安が

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刹那に生きること

刹那に生きること

躁鬱人は、人生をどこか刹那的に考えていると思う。私は鬱状態なうなわけだけど、躁状態のことをあまりよく覚えていない。自分がどこで何をしていたのかくらいは覚えているけれど、その記憶に対して感情が付属していない状態だ。お酒で酔っ払った次の日に似ているかもしれない。あれは何だったんだろう…と頭の中を探しても見つからなくて、なくしたというより、スッと消えてしまったような感覚。過剰に出ていたドーパミンが出なく

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表現者

表現者

私は自分のことを根っからのミュージシャンだとは思っていない。音楽の魅力に取り憑かれてしまい、それがないと生きていけない人たちと比べると、私と音楽の間には距離があると感じる。イラストレーターやライターだともあまり思っていない。職業を説明する時に、どれかの名前に当てはめなければ伝わりにくいからとりあえず選んでいるような感覚で、プロフィールを話す度に自分は何者なのかについて考えてきた。時と場合によってや

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自分に飽きた

自分に飽きた

どうして突然、風景画なんて描き始めたのかが気になっていた。今住んでいる街の美しさを伝えたかったり、坂口恭平さんのパステル画に影響されたりなど理由は色々ある。でも1番の理由は、自分に飽きたのだと思った。私は週刊少年ジャンプの連載漫画家になりたいと思った小学生の時からずっと、頭の中で物語を妄想していた。現実世界より、自分の中で作り出す世界観の方が楽しかったのだろう。だから日常生活の記憶はほとんどなく、

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伝達者として

伝達者として

この街へ来て、綺麗だなあとか、美しいなあと思うことが増えた。それは大自然と、古い街並みが残っているこの場所が好きだからだろう。だけど、どうにもそれだけではないらしい。以前までの私は自然を見ても、他の古い街並みを見ても、さほど何かを感じることはなかった。いいなあとは思うけれど、感情が大きく揺さぶられて作品を作りたくなる衝動までには繋がらない。見ているようで、心は通り過ぎていた。今ではもう何千回と見て

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守ってきた作りたい気持ち

守ってきた作りたい気持ち

何かを作り出せることは、私にとって特別なことではなかった。絵が描けることも、曲が作れることも、文章が書けることも当たり前で、こうした創作をどこかで習ったことは一度もない。どちらかと言えば、社会ではあまり役に立たないものだと思ってきた。ずっとそう教育されてきたからだ。芸大や音大へ行かない限り、受験や就職活動にこれらが役に立つことはほぼない。たまにある美術の授業で褒められるとか、音楽のテストで高得点取

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仕事と趣味の境界線

仕事と趣味の境界線

趣味は何ですか?と聞かれたら答えに困るかもしれない。やっていること全部が趣味なようで、趣味ではないからだ。この社会には、仕事と趣味の間に境界線がある。日本特有の文化らしい。その境界線は人それぞれで、お金をもらっていたら仕事だったり、趣味だからお金をもらわずに無償でやったりする。私も以前までは、仕事と趣味が明確に分かれていた。音楽活動は仕事であって、ライブもプロジェクトもない時はニートですなどとよく

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