見出し画像

芸術は感想の押し売りではない

どこにいるのか、毎朝自分と確認する。今は真ん中にいるらしい。とても平穏で、静かな世界が流れている。真ん中の世界を知ったのはこの街へ来てからだからまだまだ新鮮で、知らないことも多い。家事や事務作業などのできることは増えるけれど、感情は少し鈍くなっている気がする。薬を飲むことによって真ん中を維持させて、感情が振り切れないようにしているのだからそりゃそうか。真ん中にいると創作ができなくなってしまう不安が当初はあった。病んでいたり、ドラマチックな出来事があった方がいいものが作れると思っていたからだ。つまり、常に作品にするためのネタを探している状態だった。だけど真ん中の世界を知った最近では、作品へ自分の感情を乗せること自体に疑問が生まれた。果たしてその行為は本当に必要なのだろうかと。

私が作品を通して伝えたいものは、自分の感想ではない。私がどう思ったのかはぶっちゃけどうでもいい。自分の感想が先に伝わってしまうというのは、レストランの入り口でお客さんにいきなり「おいしいでしょ?」と聞いているようなもの。作品からはなるべく自分の気配を消して、その人自身の感想を持ってもらえるようにしたい。もちろん作り始めるきっかけは自分が感想を持ったからであるけれど、いつまでもそこにしがみついていると感想の押し売りになってしまい、他者のものにならない。他者に響くという現象は、作品の中から伝わってしまった何かがその人に憑依して、自分ごとに置き換わる瞬間のことだと思っている。だから自分自身に真剣になっているうちは、作品で何かを伝えることはできないのだと思うようなった。むしろ自分という存在は邪魔で、いかにどかして、作品だけを独立させられるかが重要なのだと。親(作者)が子(作品)離れするみたいなものかもしれない。

そう思うようになってから、作り手が前に出すぎているものを見ると心がザワザワするようになった。奥にある伝えたいものが全く見えないからだ。作品ではなく自らを承認させるのに必死になっている姿が、以前の自分と重なってしまうからかもしれない。私は作品を自分が承認してもらうためのツールとして使っていた節がある。一番最初はそうではなかった。私が作品というものを意識して作り始めたのはおそらく漫画からで、漫画家は自分の性別も顔も本名も隠している場合が多かったから、作品から自分の存在を消すのが当たり前だった。だから私は自分を売り出すアイドルになりたいわけでなく、やっぱり作り手でありたいのだ。それがいつからかすり替わってしまい、自分が作品よりも前へ出るようになってしまった。そうなってしまったのは周囲の環境や年齢、SNSの普及による承認欲求の増幅など、色んな要因が複合的に絡み合ってきたのだろう。作品を見てもらえないから自分が前へ出るのだろうけど、自分が前へ出れば出るほど作品の影は薄くなってしまう。

このなんとも歯痒いジレンマは、自分の承認を作品を通してではなく、全く別の場所で解決すればいいのだと気がついてからは、創作中に自分の感情がどこにあるのかについてはどうでもよくなった。病んでいなくても、ドラマチックな出来事が起きなくても創作ができるようになっていた。例えば海を作品にする時、問題なのは海を見て自分は何を思ったのかではなく、海が何を見せようとしているかだ。だから私は限りなく無になり、カラになり、リセットをして何を見せようとしてくれているのかを受け取る練習をしている。その受信が上手くできるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

主観である限り、自分という世界を出ない限り見えないものがたくさんあって、感情自体はとても小さくて狭い世界なのだと知った。私が錆びれた街の風景を美しく思うのは、単なる主観ではないと思っている。錆びれてもなお美しく見せてくる姿に私が気がついただけだ。ただの言葉のあやに聞こえるかもしれない。だけど気がついてしまった以上、形に残しておかなければと掻き立てられるようなこの感覚は、私のものではない気がしている。もしも私のものならば、風景画を描き始めた3ヶ月後に展示会は決まっていなかっただろう。私が美しいと思った感情よりももっと手前にある、その街の美しさ自体が伝わった証拠だ。

得体の知れない何かがずっと伝えてきていて、私はそれを形にするだけの装置みたいになりつつある。山の上から流れてきた川の水がやがて海へと交わるように、私の中へと流れ込んでくるもの。その正体を私はこれから探していくのだろう。

この記事が参加している募集

#とは

57,832件

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!