見出し画像

守ってきた作りたい気持ち

何かを作り出せることは、私にとって特別なことではなかった。絵が描けることも、曲が作れることも、文章が書けることも当たり前で、こうした創作をどこかで習ったことは一度もない。どちらかと言えば、社会ではあまり役に立たないものだと思ってきた。ずっとそう教育されてきたからだ。芸大や音大へ行かない限り、受験や就職活動にこれらが役に立つことはほぼない。たまにある美術の授業で褒められるとか、音楽のテストで高得点取れるくらいで、創作が必要とされる場面は本当に少ない。だから子供の頃は必ず持っている創作欲を、多くの人たちが早いうちに放棄してしまうのだろう。砂場でお城を作ったり、地面に枝で絵を描いたりしていたはずなのに、スポットライトが当てられることはなく、計算したり、歴史や化学記号の暗記ばかりするようになる。決してこれらが必要ではないと言っているのではなく、割合が極端すぎない?と思っているのだ。

私の創作欲が大人になった今でも残っているのは、おじいちゃんの存在がとても大きい。30年かけてたった一人で家を作り続けているおじいちゃんが遊び相手だった私にとって、自分が作りたいものを作り続けることは当たり前だった。どんなに学校でつまらない授業を聞いて、芸術は将来役に立たないと刷り込まれても、家に帰れば実際に創作を楽しんでいる人がいる。母やおばあちゃんは、いつまで経っても家が完成しないから苦労したのだろうけど…。社会の成り立ちと、おじいちゃんがやり続けいることの辻褄がどうしても合っていなかった。作りたいものを作り続けている人が、一番真横にいるのだから。おかげで創作欲を手放す必要はないのだと、何も分からない子供ながらの自分でも感覚で分かっていたはずだ。それでも大学受験の際に、絵と音楽の両方を手放して、教育の方へ進路を決めた時期もある。絵の道具は全部片付けたし、音楽も食べていけないと思った。それは指針であるおじいちゃんが亡くなってしまったからか、社会の圧力に負けてしまったからか分からないけれど、自分の創作欲よりも、世間体や体裁の方を優先させた。そうやって一度は手放してしまったものが早くに戻ってきたのは、子供の頃に培った創作の時間が圧倒的に長かったからだと思う。授業を聞いていた時間よりもノートに漫画を描いていた時間の方が、テスト勉強していた時間よりもギターを練習していた時間の方が長い。表向きにはちゃんとやってる風を装いつつ、私の創作欲は隠され守られてきたのだろう。表に出せば、そんなものは役に立たないという社会の風当たりが強くなるからだ。

AI作曲、AIイラストレーター、AIチャットがここまで世間に浸透し始めているのは、手放してしまった創作欲を満たそうとしているように見える。一番楽しいはずの生み出す部分をAIに任せてしまうのが、私は不思議でならなかった。会社でロゴが必要だから事務的に使うとかではなく、多くの人たちがAIを使って作品作りを楽しんでいる。やはり人は何かを作りたいと心のどこかで思っているのかもしれない。そうでなければ芸術は役に立たないと教育されてきたにも関わらず、AIを使ってまでまた何かを作りたいとは思わないだろう。手放してしまったものをもう一度取り戻そうとしているようにさえ見えた。今すぐに絵を描けるようになったり、曲を作れるようになったり、こうして文章を書けるようになったりはしない。自分の作品として作れるようになるまでには、とても時間がかかる。でも現代では、コスパタイパ(コストパフォーマンス&タイムパフォーマンス)なんて言葉もあるくらいで、周りに流されず、時間をかけて結果を出すのが難しくなってきている。創作欲を育んでいる暇はない。だからこそ逆に、私の何かを作り出せることが特別だと思えてきた。これからAIが作ったものが増えていくなら、尚更人間が作るものは貴重になってくる。芸術は社会では役に立たないものから、AIが代わりにやるものになっていくのだろう。多くのクリエイターたちが焦っているけれど、私からしたらこの変化はさほど変わらない。就職では必要ない!から、AIに仕事を取られる!に変わっただけ。社会的立ち位置は相変わらず不利だ。例え周りが変わっても、私は変わらず創作欲を地道に育てて守っていく。誰にも摘まれず、社会に呑まれず、ずっと大切にしてきたものをそういう時代だから…と他者に預けてしまうのは本当に勿体ないと思う。何年もかけて育ててきたりんごの木を根っこから掘り起こして、更地にしているようなものだ。だからこれからのAI社会で、「変わらない」という選択肢もありなのではないだろうか。

この記事が参加している募集

#私は私のここがすき

15,743件

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!