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刹那に生きること

躁鬱人は、人生をどこか刹那的に考えていると思う。私は鬱状態なうなわけだけど、躁状態のことをあまりよく覚えていない。自分がどこで何をしていたのかくらいは覚えているけれど、その記憶に対して感情が付属していない状態だ。お酒で酔っ払った次の日に似ているかもしれない。あれは何だったんだろう…と頭の中を探しても見つからなくて、なくしたというより、スッと消えてしまったような感覚。過剰に出ていたドーパミンが出なくなるのだから、消えたという感覚はある意味正しいのだろう。躁状態の時にも同じことが起きていて、鬱状態だった自分の感情を思い出すことができない。これを繰り返していくとどうなるのかと言うと、過去の感情がどんどん消えていってしまい、性格を形成していくための土台が作れないため、本当の自分がいつまで経っても分からないままになる。躁な自分も、鬱な自分も、フラットな自分も確かにいたはずなのだけれど、よく覚えていないから照準を合わせられないし、合わせたところでまた切り替わってしまう。だから例えるならば、一つの人生の中で何度も転生している感じだ。

だけど、肌感的にはいずれ消えてしまうのをなんとなく覚えている。いつまでも続きそうな気持ちはあっても、お酒みたいに、夢みたいに消えてしまうのを細胞が記憶していて、その瞬間瞬間に起きることがなんだか切なくて、寂しくて、虚しいと思ってしまう。自分の中でずっと変わらず存在してくれるものがないからだ。それはこの世界の理であり、真理だから何もおかしくはないのだけれど、よりリアルに感じてしまっているのが躁鬱人なのかもしれない。

これはどうすることもできない。躁と鬱とフラットの3分割された人生が、ランダムに切り替わっていくのを受け入れるしかないと思っている。だから忘れてもいいように、こうして文章を書き続けているのかなとふと思った。振り返って読んでみると、躁な自分はこんな風に世界が見えていたんだなあと、まるで他人が書いた小説のようで面白い。見えている世界がキラキラしていて、不安なんて何一つないように日常を謳歌している。でも確かにこれは私だったわけで、今とリンクしない前世の記憶みたいだと思った。前世とか知らんけど。

文章もそうだし、作品はこの世界に形として残ってくれるから、自分にとっては生きてきた証のような、道標のような存在になっている。その作品にどんな感情が乗っていたのかを忘れてしまっても、作ったという事実は消えない。藤森愛の作品にはとんでもなく明るい曲と、とんでもなく暗い曲が満遍なくある。多分、躁か鬱になっていて、どうしてこんな曲調なんだろうと自分でも不思議な気持ちで歌っていた。でも作った曲は確かにあって、その時にはそんな自分が存在していたのだ。作品は自分の身体から出てきたものを分離させて、その状態でパッケージ化させておくようなものだと思っている。冷蔵庫に貼ってあるメモのようにもう覚えておかなくていい安心感みたいな、目まぐるしく変わっていく世界の中で地層のように積み重なっていく土台のような、忘れてしまう躁鬱人の私にとっては大きな支えになっている気がしている。この文章を書いている自分もまたそのうち消えてしまうだろうから、文字が私の代わりとなって覚えておいてくれるはずだ。そうやって私は今日も作品に記憶を託している。

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