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『ひと』小野寺史宜~振りまわされた女たち:近代家族の闇~

小野寺史宜『ひと』

1.書誌情報

作品名:ひと
作 者:小野寺史宜
出版社:祥伝社
出版年:令和3年4月

 小野寺史宜(おのでらふみのり)は千葉県出身の小説家。2006年に文藝春秋のオール読物新人賞を「裏へ走り蹴り込め」で受賞。本作は2019年に本屋大賞2位を獲得した作品。爽やかな読後感と人間のぬくもりによって高い評価を受けている。
 ちなみに舞台は、TVでよくとりあげられる「砂町銀座」。東京都江東区にあるこの商店街は、昨今の厳しい商店街経済とは違い、賑わいを見せています。もちろん、コロナ禍前のことですが……。この作品を読んだ方はコロッケを食べたくなっているに違いありません。彼を育てた商店街を守ってあげるためにも、買って応援したいですね。

2.一行でこの作品!


背中を押してくれる「ひと」がいる。
コロナ禍の今こそ、「ひと」に頼ることを忘れないで。

 主人公は、20歳という若さで両親を喪ってしまいます。家族はいない、親戚もいない。「トウキョウ」という土地でひとり。大学も辞めて、失意のどん底にいるとき、ふと、やさしい縁が巡ってくる。なにげない、まさに偶然の出会い。そこから水面が同心円に広がっていくように、彼を中心とした円(縁?)が結ばれていく。その偶然が太陽の光のように彼を照らして、一本の力強い大樹になっていく。

 コロナ禍で大学の中退率が増えたそうです。それで最近は、大学生やその家族の経済的事情に注目されるようになってきました。が、そもそも大学を中退する理由の1位はコロナ以前も以降も「経済的困窮」です。それが感染症をきっかけに話題に上がっただけに過ぎません。主人公も両親を亡くしたことからの経済的困窮で大学を離れる決断をします。慣れない土地でひとりで生きる不安。大学は学ぶだけの場所ではありません。「ひと」と「ひと」を繋ぐ一大コミュニティです。今までは中学、高校と狭い世界で生きてきた。大学は自らが新しい世界に飛び込み、新しい関係を築く場です。それが2020年を境に、崩れ去った。

もはや「ひと」ごとではありません。
コミュニティの機能を失い、霧散する大学生たち。
人間は群れで生きる動物です。
むしろ、群れに「生かされている」動物です。
コロナによって社会から隔離される人々。

 大学生だけの問題ではないでしょう。むしろ中退の問題は、氷山の一角。関わり合いを失った人はストレスの処分場を失い、無意識に孤独を感じ始める。「自分」は「他人」と交わることで自らを形作っていきます。その手段が減ってしまったら人は攻撃に出ます。SNSでの口撃、家庭内外の暴力。今まさに社会が抱えている課題です。誰かを攻撃することで、逆説的に自分を形作ろうとする。そうして「自分」を再確認する。
 この作品が本屋大賞で2位を獲得した理由は2つあると私は考えています。その一つは、社会が抱える孤独でしょう。SNSが普及しても、目の前に対峙する人間がいないと寂しさは増えるものです。家に帰った時、「おかえり」と言ってくれるひとがいる温かさを我々は知っている。母や子供の心のこもった「おかえり」。だからSNSでの「おかえり」はむしろその寂しさを一層浮き立たせてしまう。そんな読者が、人恋しさを求めたさきにこの作品があったのかもしれません。
 

世の中が好景気だと明るい作品は売れない。世の中が不景気になると売れるようになる。

よく言われる話です。
この作品が売れて〈しまった〉のは、我々の孤独の裏返しかもしれない。

そして売れてしまった2019年を経て、さらに社会は孤独を加速させた。
コロナウイルスの流行。
だからこそ、読んでほしい。
たとえあなたが孤独でも、そこに希望を見つけられるように……


3.心に残る一節

主人公が働く「おかずの田野倉」にはパートの一美さんがいる。
中学2年の息子を育てるシングルマザーだ。
今日の一節は、そんな一美さんに、店主・督次がした行動。

一美さんはひとりでその準弥くんを育てている。だから残った惣菜を持ち帰る。なるべく残らないように調整はしているはずだが、督次さんと詩子さんがあえて残してる感じもある。

『ひと』小野寺史宜、p45

 まさにこの作品のタイトルを象徴するような一節だと思います。実はこの一節の前に、交通費を督次さんに負担させないように一美さんが自転車で通勤しているという描写があるんですね。
 冷めた目で見れば、自転車で通う時間が無駄。非効率的。交通費をもらうことは正しい権利なのだから遠慮する必要はない。こういう声が聞こえてきそうです。でもこの気遣いの応酬は自分を殺しているわけではない。互いが互いを思いやった関わりの在り方です。私が「いいなぁ」って思うのは、この描写がセリフになっていないところです。むしろセリフにならないところに、醍醐味があるというか。セリフにしてしまえば興ざめになってしまう。しかしセリフにならないからこそ、恩着せがましい感じがしない。実際そんなものは着せていないのですが。二人の損益勘定のない、「ひと」としてまっすぐに向き合う誠実な感じが表れている。言葉にしてしまったら消えてしまいそうな優しさの応酬。まどろっこしい、と一蹴されてしまいそうなやりとり。でもこの婉曲の美学こそ日本人が培ってきた人付き合いの方法だと、私は思います。無言の美学はSNSでは成立しない。SNSでの無言は、意味の余白がない。

SNSにおける無言は、無関係しか示さない。

対面の関わりにおける「無言」にこそ愛おしさがあると思いませんか。
友人との無言は、一つの信頼のかたち。
恋人との無言は、一つの愛情のかたち。
 最近は、
「言葉にしないとわからない」
「空気を読むなんて非合理的」
「そういう付き合い方は気が疲れる」
といった風潮ができているような気がします(SNSにおぼれている私だけでしょうか)。
皆さん、人間関係をスリム化しようと急いていませんか?
きっと、SNSの無言は無関係しか示せないから、SNS住人(私も含めて)は言葉に頼りすぎてしまうのでしょう。
頼りすぎると、支えを失った時に痛い目をみることになります。
そうならないためにも、「ひと」と「ひと」の関わりを大切にしていきたい。コロナ禍でひととの関わりが失われつつあります。我々が「孤」ではなく、「個」になるためにも、誰かとのかかわり合いは大事です。関わり合うことで自分を客観視できる。
関わりを遮断してしまうと自分が中心化される。自分が正しいと感じてしまう。誹謗中傷が起きる。暴力が発生する。内側に向かうと自殺になる。

 話が脱線してしまいました。結局何が言いたかったかというと、
「ひととの関わりの大部分は、言葉の外にある」ということです。そういった関わりの本質が、引用した一節に強く表れていると感じました。

4.100字書評

ひとの優しさが心にしみる。商店街の人々の心遣いに身を委たくなる。辛い岐路の連続にも手を差し伸べてくれるひとがいるという希望に救われた。柏木くんの第二の巣立ちは活力と一直線の爽やかさに貫かれていた。


5.ひねくれ書評—家族の矛盾が夕日の影に—

 この作品はひとの温かさや主人公の成長がしっとりと描かれている作品です。砂町銀座商店街の人のぬくもりが、夕日のノスタルジーをバックにして包み込んでいるように私は思います。しかし夕日が沈むまぎわの、伸び切った長い影には、この作品の裏にある構造の不気味さを残しているのではないでしょうか。

名字の変化が与える〈暗さ〉

 登場する人物の名字がころころと転がっていることに気づいた方は多いでしょう。まず主人公の柏木ですが、これは母親の旧姓です。元は駿河という名字でしたが、父親の死後に柏木になりました。また、ヒロイン(?)に至っては、園→八重樫→井崎と3回も名字が変わっています。さらには、山城夫妻、パートの一美さんも、名字が変わっています。

主人公 :駿河 ⇒ 柏木
一美さん:浜名 ⇒ 芹沢
ヒロイン:園 ⇒ 八重樫 ⇒ 井崎

 プロットの底流には名字という問題が流れていることが分かるでしょう。では、名字の変化(揺れ)は何を表すのでしょうか。それは、家族の揺れです。この作品は名字の揺れを描くことによって、家族の揺れを描いているのです。そして、名字の揺れの原因を探ると、そこには死別・離婚があることがわかります。そして作品でフォーカスされているのは、名字の変更を余儀なくされた側、つまり——先立たれた側と、離婚された側です。名字に揺れる人々とは〈揺らされている〉人々であり、それは家族の在り方に自らの人生を〈揺らされている〉人々なんです。

テクストが示す周縁

 今の時代において名字の変化が意味するところは経済主体(大黒柱)の変化です。この作品でも、名字に〈揺らされた〉人々が経済的な困窮を強いられている様子が描写されています。一家の大黒柱(父)を失った家庭は、経済の支柱を失い、社会の周縁に追いやられてしまう。名字の〈揺れ〉は、経済や生き方の問題を象徴しているのです。つまり死別や離婚によって社会に周縁化される人々の姿がそこにはある。名字の変化は、家族が経済的支柱を失い周縁化されることを暗喩している。『ひと』の世界は優しさに満ちていて、明るい雰囲気が作中を覆っているように思える。しかし、名字の揺れというささやかな違和感の背後には、近代家族観の矛盾が刻されている。
 最近は、「子ども家庭庁」、「匿名出産」、「レズビアンカップル」などというかたちで、今まで近代化を支えてきた父権的家族観が崩れ行く様相が浮き彫りになってきている。当時のような性別分業の家族観は、現代にはなじまない。かつての家族観が限界を迎える様子が、名字の〈揺れ〉というかたちで描かれている。「父が家の中心であり経済力である」、父依存の近代家制度の問題が現代にまで引きずられているという構造がそこには隠れているのだ。

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ここから先は、ネタバレ注意!!!




結末はなにを意味するか

 ラスト一文はすごい爽やかな終わり方で、彼の明るい未来を予感させてくれるような気持ちよさがあります。しかしここも、角度をかえて見てみると、家族の問題が浮かび上がってきます。
 主人公は最後、自分の生き方の決断に覚悟を決めたあと、井崎に告白をします。彼女には、言い寄ってくる元カレ・高瀬がいます。彼は慶応大学を出てこれからいわゆる成功ルートを歩み、経済の安定が保証されている。一方主人公は家族の遺産も無く、独り料理人としての道を征くことの経済的な険しさは作中で何度も描かれてきました。
 井崎が、慶応生の高瀬を択ぶか、主人公・柏木を択ぶかという問題。そしてここでもやはり、名字の問題が出てくる。結婚して〈高瀬〉になるか、〈柏木〉になるか。この選択は、経済的安定(=高瀬)を択ぶか、不安定(=柏木)を択ぶかという問題と同義です。告白という感動的なシーンの背後に、名字と複雑に絡み合った経済の問題が隠れている。
さらに皮肉なことは、名字の〈揺れ〉に振り回される人として存在していた柏木が、今度は一転して名字を〈揺らす〉側に回っているということです。この怖さが分かるでしょうか。周縁化されていた柏木が今度は、誰かを周縁化させてしまうかもしれないという恐ろしさが、爽やかな告白の言葉の背後にひたひたと影となり渦巻いているという怖さ。

 あまりにネガティブな解釈をしてしまったので、最後に救いのある解釈をしたいと思います。この告白、主人公が選ばれるかどうかはさておいて、高瀬が選ばれることがないのは文脈から予想できます。それはつまり、経済力を背景とするだけの近代的家族観の敗北です。自由恋愛の世界に生きる現代人の主体性がそこには存在している。主人公の勢いある告白と井崎の選択はきっと、新しい家族の在り方を創出できるような若者の時代の到来を私たちに予感させてくれるのではないでしょうか。周縁化の苦しみに立たされた二人が未来の日本を担っていくことに、将来に新しい家族観が誕生することを予感させてくれるのです。

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