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鏡を責めて何になろう


2024年5月23日(木)朝の6:00になりました。

家を出る前に鏡を見て、身につけているアクセサリーを1つ外して。

どうも、高倉大希です。




自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう。

ロシアの文学者、ニコライ・ゴーゴリの『検察官』という戯曲の一節です。


あまりにも鋭くて、目にしたときからずっと頭に残っています。

きっと、自分の面が曲がっているという自覚があったのだと思います。


たしかに、そんなときほど鏡を責めたくなるものです。

鏡を責めたところで、何の変化も起こらないのに。


人々は「私」という美術館を作り上げています。「私」の経験という履歴の中から、他者に見せたいもの、魅せられるものだけを丁寧に選別し、ガラスケースに入れた美術品のように展示しています。そして、その展示を見たひとは、自分の持っている美術品と価値を比べてしまう。

近内悠太(2024)「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社


小学校の学級担任を務めていたころ、とくにこの事実を痛感しました。

学級は担任を映す鏡だ、とは本当によく言ったものだなと思います。


担任が迷っていると、子どもたちも迷います。

担任が不安そうにしていると、子どもたちも不安になります。


そんなときに限って、思い通りにならない子どもたちを責めたくなります。

自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう。


「強い/弱い」「善い/悪い」「有る/無い」、すべて、縁しだいで、どんどんかわっていく。自分の「かわらない本質」は成立しない。つまり、不変の「個性」、不変の「性格」、不変の「アイデンティティ」は、ありえないのだ。

しんめいP(2024)「自分とか、ないから。」サンクチュアリ出版


規模感が異なるだけで、学級も社会も同じじゃないか。

そう思うようになったのは、もう少し経ってからのことでした。


うまくいかないときに限って、社会のせいにしたくなります。

言い換えるなら、自分とは関係ないもののせいにしたくなるわけです。


それが鏡だということに、まったく気づいていやしません。

自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう。


自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、ほかでもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。

池田昌子(2003)「14歳からの哲学」トランスビュー


てめえに都合の悪いやつを、悪と言えば簡単。

YZERRは、こうガイダンスしています。


自分の面が曲がっているという事実は、認めたくないものです。

そもそもそれが鏡だということにも、なかなか気づくことができません。


これからも、ことあるごとにこの言葉を思い出すのだろうなと思います。

自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう。






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