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耳が痛い言葉の先に


2024年1月11日(木)朝の6:00になりました。

自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう。

どうも、高倉大希です。




毎朝6:00に、文章を書いています。

日々の文章のほとんどは、自分に向けた戒めです。


自分の外側に広がる世界のほんの一部を頂戴して、テキストに落とします。

そんな世界を観察して得た発見を、毎朝記録しています。


ひとり目の読み手である自分が「そうだよな」と思える文章を、ずっと考え続けています。

誰かのことをとやかく言うつもりなんて、これっぽっちもありません。


コミュニケーションには、つねにおくり手とうけ手が存在する。情報には、かならずしもおくり手とうけ手があるとはかぎらない。さきに天体をも情報のおくり手であるといったが、正確にいえば、天体が情報をおくりだしているのではない。情報はその天体とともに存在するのである。その情報を情報としてうけとめ、それを解読するのは人間の側の問題である。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


いやあ、たしかにそうだよなあ。

うわあ、考えてみればそうじゃん。


ビビッとくる発見は、たいてい耳が痛くなるような言葉の先にみつかります。

言わば、図星を突かれるというやつです。


無意識に避けてきたものに、スポットライトが当てられます。

そりゃあそこに、大きな発見があって当然です。


けっきょく、自分の世界というのは「普段なにを見ているか」や「普段誰と会っているか」によって決まってくるものだと思います。

糸井重里、古賀史健(2018)「古賀史健がまとめた糸井重里のこと」ほぼ日


ほんとうならば、目を閉ざしたくなります。

ほんとうならば、耳を塞ぎたくなります。


それでも、がんばって目を見開きます。

それでも、がんばって耳を澄ませます。


すると、その先に続く道が見えるようになってきます。

これまでは聞こえていなかった声が、聞こえてくるようになってきます。


「僕らの仕事はね、時には自己否定することなんです」いままで正しいと思ってきたことも、もしかしたら間違っているかもしれない。そもそも、それがほんとうに子どもたちのためになっているのか。自律した子どもを育てることに役立っているのか。常に考え続けることが大事だし、自分自身を否定してみることも重要だと伝えたんですね。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


あらゆる声を聞き入れろと、言っているわけではありません。

どうでもよい言葉は、右から左に受け流しておしまいです。


注目すべきは、耳が痛くなるような言葉です。

その先に、新たな道が続きます。


思わず何かを、言い返したくなるような言葉です。

言い返したいけど、ぐうの音も出ないような言葉です。






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