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学校の先生は大人の一例でしかない


2024年2月3日(土)朝の6:00になりました。

その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。

どうも、高倉大希です。




学校の先生は、子どもたちの模範でなければならない。

そんな思い込みが、妙な人間関係を生み出しているような気がします。


学校の先生は、人間です。

所詮は、大人の一例でしかありません。


たまたま出会った先生を、ロールモデルにする必要なんてありません。

そもそも、クラス全員にとっての模範になんてなれるわけがないのです。


ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよらといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。

高橋源一郎(2022)「5と3/4時間目の授業」講談社


学校の先生になっている時点で、例としてはめちゃくちゃ偏っています。

学校の先生になろうと思った大人しか、学校には集まらないからです。


人と人との付き合いですから、そりゃあ合う合わないがあって当然です。

合わない先生がいても、何もおかしくはありません。


それなのになぜだか、学校の先生は模範でなければならないと思われがちです。

模範であることを前提にしてしまうと、合わないことが悪になってしまいます。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


学ぶところが、学校しかない。

模範にする大人が、先生しかいない。


ひとつの例を、すべてだと思ってしまう。

これはきっと、大きな問題なのだろうなと思います。


そのひとつの例が合わなければ、すべてがダメになってしまいます。

見ている世界が、あまりにも狭すぎるのです。


人間関係を学ぶところが学校しかないことも問題でしょうね。日本では家も地域コミュニティも解体されて、残っているのは学校だけです。僕は、いま日本で起きているさまざまな問題は、子供時代に経験した学校だけが人間関係や上下関係のモデルになっていることに起因していると思います。

養老孟司、茂木健一郎、東浩紀(2023)「日本の歪み」講談社


学校の先生は、模範という仮面を取れたらいいのになと思います。

所詮は、ただの人間です。


その代わり、子どもも保護者も先生に期待しすぎてはなりません。

所詮は、ただの人間です。


そう、所詮はただの人間でしかないのです。

学校の先生は、大人の一例でしかありません。






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