幸福になるには~日常を微分する~
■はじめに
某ひろゆき氏が動画で「日本人は幸福を感じにくい」と話していた。
そんな切り抜きが流れてきた。
果たしてそうだろうか。
色々な視点を観ながら、マズローだとかハースバーグだとか関係なく「私なり」に考えてみたい。
※他人の幸福論など私の人生に何ら関係ないと思っているので、どれも微塵も否定する気はさらさらない。
①【ひろゆき】人生を幸せにする最強の思考はコレです。これ知らないとガチで損しますよ../幸せの価値観/キャリア/kirinuki/論破【切り抜き】
大きくは「他者との比較により自身は不幸だ」と感じやすい。「環境として恵まれている状態にあると、減点方式での評価」となってしまうという事だ。
例えば日照が多い日本において「雨が降る事」が不幸に感じてしまい、逆にフランス等の日照が少ない地域では「晴れた日」が最高に幸福に感じるとの事である。
※前後の文脈のニュアンスはあるので詳細は動画を確認してほしい。
私もその「比較」については概ね同意である。しかし私は常に「自己に存在し」それは「自己との比較にある」と考える。
例えば他者との比較であったとしても、「あの人はお金持ちで羨ましい」には常に「お金持ちでありたい私」が自己内に存在し、それを現在の自分の点と比較して自身を卑下している。もしくは、「あの人は本来もっと貧困であるべきだ」という自己イメージが存在し、その点と現在の「私から見た」実態とを比較している。
「私」というフィルターを通して見た時点で、既に自分自身内のイメージ比較である事に他ならない。
では、他の人はどう考えているのか、他の動画も確認してみると同じ様な説明をされていた。
②「幸せ」について4時間語り続ける釈迦
幸せとは常に「何かと比較をする事」にある。「他人と比較する、ないしは自身の中にある過去の自分の状態と比較する」である。
比較する現在の環境に対して比較を行う為、常に幸福を感じる事は可能である。安いご飯を食べ続けていた人が、高いおいしいご飯を食べられた時に幸せを感じる事が出来る、次第に高いご飯を食べ続ける事に慣れた人は逆に安いご飯を食べる事に幸せを感じる事もありうる。この比較である。
切片b、傾きaは人それぞれではあるが、x軸(時間・状態)の変化により感じる幸せがy軸(幸福度)が変化するその過程が幸福であると感じる。
変化の過程にのみ幸福を感じる事が出来る為、あるx軸に対するy軸の幸福度そのものを感じる事は出来ない。感じている時点でどこかのx軸に対するy軸の幸福度との比較になる、というものだ。
議論の主軸となっている「比較」「相対」は紛れもなく事実だろうと感じる。これも同意である。
私とちょっと違うのは「自己内にしか存在しないか否かを名言しているか否か」だけである。又、そもそも自己内に存在する幸福度なんてものを正確に測定できる人などいないはずだし、それが常に固定されているはずでもないはずである。
上記の図で言うと、切片bも傾きaが常に変わり続ける。さらにこのbやaは自身から見た外的環境により影響を受ける。イメージはこの動き続ける一次関数が自身の感情ごと無数に存在し、この他の一次関数の動きが他の一次関数のbやaの変数にもなるのだ。もう訳が分からない。
では、さらに他の人はどう考えているのか。さらに観て見る。
③「幸せ」について4時間語り続ける釈迦に影響されて、「幸せのなりかた」について1時間以上語るスタンミ【スタンミ切り抜き】
人生において点(事象)と点(事象)を結んだ線、その過程が一番重要である。点(事象)に人は幸福を感じやすいが、その点から次の点までをどう過ごすかを考えるのが、人生において幸福度を最大化する為に必要であるという事だ。
意図的に「運が良いと思う」「日々の細かな幸福感を感じる」という過程が何よりも大事なのである。という意図だ。
仮に図にするとすれば指数関数のイメージだろう。あるx軸に対してy軸の点の幸福度を感じるのは当然であるが、次のx軸に至るまでの傾きを最大化する為にと言う事だろう。いわんや日常を微分して傾きを最大化している感じだろうか。
なんか言葉がカッコいいので、間違っていても良い。
■極論の幸福
さて、ここまで色々な幸福論について観てきた。
出てきた要素はざっくりとこんなところだろうか。
この要素で極論の幸福とはどんな状態にあるだろうか。考えてみる。
〇外的環境との比較
まず、外的環境と「比較できない状態にする」事だろう。
何もモノを持たないとか、一番多く情報が流入するSNSを断つのも一つだが、「自分ブランド」を作ってみてもいいかもしれない。
安い布で2か月子供と一緒に作った小銭入れは、誰かのグッチの財布と比較しようと思うだろうか?
別に自作しなくても良い。
例えば私の部屋は「#3c8490」のアルノ・ブルーのみだから、どんな製品であったとしてもアルノ・ブルーで無ければ私にとって価値は無い、とか過激な考えでも良い。
〇自己内での比較
次に自己内との比較だが、生きていて「比較しない状態」にする事はかなり難しい。では「比較しても問題ない状態」にしてみてはどうだろうか。
それは、常に評価を多面的にする事である。具体化・抽象化を繰り返すと言ってもいい。
例えばサッカーのシュートが下手だったとしよう。しかし、「下手」にもいろいろある。具体化すると足の角度やインパクト、軸足の力、上半身のバネ、視線の動き、トラップの位置等様々だ。
そしてその要素を総合して「下手」で上手くなっていないと感じているだろう。しかしながら軸足の位置は前より上手くなっているかもしれないし、インパクトの力は誰よりも強いかもしれない。そこには必ず「過去の自分からの成長部分」が存在する。
又、一段階抽象化すると「シュート」はサッカーのプレイの中の一要素でしかない。仮にシュートが下手だとして、声出しやポジション取りが誰よりも上手いかもしれない。下手では無い部分にも注目してみるべきだろう。
〇日常での幸福の最大化
次に日常でどう幸福を最大化するか、である。
「常にラッキーと思う」は確かに手法としては有用だろうが、人によっては難しいのでは無いだろうか。
なので、「選択肢を用意しておく」では無いだろうか。
また、その選択肢に常に面白さややりたい事をセットにすることだ。
例えば雨の日、車に跳ねられた泥水が白いTシャツに飛んできてシミが付いてしまったとする。
事前に頭の中で「服が汚れてしまった時」の選択肢を用意しておく。
ありきたりなのはこんなところだろうか。
この選択肢がある事で汚れた後にも「あ、新しい服が買えるな」とか「家で良い質感の服で過ごせる」とか「他の服が綺麗に出来る」とかちょっとプラスになるはずである。
■終わりに
他者の幸福論を観て、自分なりの考察をすると共に極論の幸福論みたいな話を考えていた。
結果、自己基準のミクロ・マクロの視点で生活し、未来を見据える人である。
こんなの常に考えている人もう不幸だろ。