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戦火のアンジェリーク(1) 1.Australia

1938年。世界中が狂気の渦に呑まれつつある、初冬の英国に一人の少女がやって来た。13年前、貧困と育児放棄が原因で、親戚が営む東オーストラリアの孤児院に使用人として引き取られた少女、アンジュである。
彼女は天性の音楽好きで、歌と南半球の豊かな自然を拠り所にしながら孤独に生きていたが、予期せぬ初めての友情、恋、辛い別れを経験した後、歌手になる夢を追う為、赤道を越えて来たのだ。
様々な出会い、酷な現実、運命的な恋に落ちる中、戦争という狂気の時流に巻き込まれ、やがて自身の心の闇と向き合う事になり……
愛を知らない不遇な少女の成長、喪失と再生を描いたヒューマンヒストリカルロマンス。

あらすじ

※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。
※R15程度の性表現、PG12程度の残酷表現がありますのでご注意下さい。
※身分や生い立ち、職業に対する差別的表現がありますが、当時の価値観に基づく描写です。推奨や助長の意図はありません。

概要

1.Australia

序曲 ~ 望郷


 『故郷』と聞いて、人は、何を思い出すものなのでしょうか? 育った家、家族、土地、料理、子供の頃の自分……

 懐かしさと共に郷愁の思いをせ、『そろそろ帰りたいな』と、躊躇ためらいなく願える場所。赴けば、いつでも温かく迎えてくれる場所。

 そんな存在がある人は、おそらくなのだと思います。そういう意味なら、私も幸せなのでしょう。
 ただ、どれにも、の面影はありませんでした。

 澄み切った青い空、綿菓子みたいな白い雲、ターコイズグリーンに染まった大海。緑薫る広大な草原。
 色鮮やかなオウム、愛らしいコアラ、突風のように走るエミュー、大地を跳ねるカンガルー…… 私が育った地と、友達でした。

 何処どこで生まれたのか知りません。産んでくれて、暫く暮らしたという、両親の顔も覚えていません。
 この自然豊かな国の片隅にる、美しい海と隣接する田舎町が、私の故郷でした。

 地球上全ての生命いのちの始まりで、生物に多大な恵みをもたらし、幼い頃全てを知っている、あの壮大な海が、私の――故郷ふるさと

 ――ただ、歌っていました。

 いつもの海辺で、見知らぬ外の世界を夢見て、を求め、乞い、願いながら……

変わり者の天使


 二十世紀初頭の欧州。民間用の飛行機がまだ飛ばない時代、南半球から北半球の果てにある英国までの旅路は、長い、長い道のりだった。
 国境を越え、海の向こうの地……まして赤道を越える手段は、港から船に乗り、何日もかけて進むしかない。
 蜂蜜はちみつ色のウェーブヘアを強風で乱した少女が、身震いしながら甲板に出てきた。まとわりつくような冷たい外気を感じ、思わず顔をしかめる。周りは霧が立ち込めていて、目を凝らさないと足元も見えない。
 しっとりと濡れた、甲板の手すりに掴まり、少女は目前に広がる海を見た。南半球の海の色とはまるで違う……くすんだグレイッシュブルー。同じ星の海とは思えない位だ。
 見上げる広い空も、どこか曇って見えるのは、漂って来ている煤煙ばいえんのせいだろうか。寒さの度合いも全然違う気がする。

 ――こっちは、これから秋なのね。

 少女は思った。周囲の客も英国が近いと話している。着ていた薄いガウンを羽織り直し、見慣れない風合いの景色を眺めた。比例するかのように、心細さが増幅していく。

 ――まだ着いてもいないのに。

 そんな自分に苦笑する。わからない事ばかりだけど……怖がってばかりはいられない。挫けそうな気持ちを奮い立たせ、前を見据えた。

 ――これは……冒険。何が起こるか怖いけど、昔読んだ、物語の主人公みたいに、素敵な事だって起こるかもしれない。
 ――何より、との約束を守る為……

 で出逢った一つの誓いが、今の少女の、唯一の支えだった。


 ――十三年前の九月。南半球にある大海の島国、オーストラリアでは、ようやく訪れた春の香りで満ち溢れていた。首都、シドニーの郊外にある、ニューキャッスルという田舎町の外れに、古びた小さな教会があった。そこでは、一人の修道女が孤児院を営んでいる。
 終わって間もない先の戦争や、数年前から続く世界的な大恐慌の影響か、玄関前にはよく赤ん坊が捨てられる。前の大戦や貧困で親を失い、身寄りを無くした子供の引き取りも跡を立たなかったが、時には他の理由もあった。
 とある夕刻。息巻いた数人の男が、一人の幼女を連れて、孤児院の玄関前に押しかけた。

「そうは言ってもですね。もう、子供は一杯なんですよ」
「そこを何とか頼みますよ。あんた、叔母でしょ? 両親が借金踏み倒して、一人置いていかれたんですわ」
「兄とは、もう何年も疎遠です。数多くいる兄弟の一人ですし、姪の存在すら知りませんでした。私とは無関係、他人です」

 苛立つ気持ちを抑え、修道女は事務的で冷淡な口調で、すっぱりと切り返す。そんな彼女に少し圧倒されながらも、自分の背後で睨みをきかせている、強面の男達に、ちらり、と視線を送り、男は続けた。

「働かせるにも年端いかないから力にならないし、ずいぶん育児放棄されてたようで、体つきも悪いし痩せぎす。器量も人並みだしで、身売りさせるにも二束三文なんですわ」
「……で、ウチに押しつけるんですか?」
「ここで、小間使いでも下働きでもいいんで、使ってくれんでしょうかね?」

 あからさまに迷惑そうにしている修道女は、男の後ろに隠れながら、無表情でこちらの様子を伺っている、戸籍上の姪に冷めた眼差しを向けた。
 荒れて伸び放題ではあるが、強いウェーブのかかった髪は蜜蝋色みつろういろ、痩せこけた顔を造る肌は、薄汚れてはいるがマシュマロのように白い。そして、暗い陰を落としたは、孤児院のすぐ側にある海と同じ、マリンブルーだ。
 慈善事業の延長である、個人経営の養護施設だった。経営は苦しい。金はいくらあっても足りなかった。暫く小間使いとして使って、成長したら何かしらの形で高く手放せるかもしれない……と修道女である、院長は考えた。

「……名は?」

 まだ、まともに口のきけない幼女の胸元にある名札には、『アンジェリーク』とあった。

 ――十年の月日が流れた。『天使のような』という意味を持つ名のせいか、アンジェリークこと『アンジュ』は、音楽……歌う事が好きな少女に成長した。
 今日も孤児院の台所で、ポニーテールに纏めた、蜜蝋色の長いウェーブヘアを揺らし、洗ったばかりの皿を拭きながら、お気に入りの歌を何度も繰り返しハミングしている。すると間もなく、甲高いヒステリックな声が飛び込んできた。

「アンジュ!! 遊んでないで早くしなさい!! それが済んだら、ケイトにミルクやって、おしめも替えるのよ!? その後は、いつもの裏庭の掃除!! わかった!?」

 炊事場を覗き込んだ中年の修道女が、目をキツネのように吊り上げながら、すかさず釘を刺し、次々に仕事を言い渡す。
 十年前、アンジュを引き取った叔母であり、孤児院の院長は、彼女に来た養子縁組の話を全て断り、今でも小間使い、メイド代わりにして使っていた。良い頃合いのが来るまで、ここに置いておくつもりなのだ。
 アンジュと同じ年頃の子供は、他にも何人かいた。しかし、院長は彼女にだけ、沢山の仕事を言い付ける。それは、十年前から変わらず繰り返されている、ここの日常だった。

「はぁーい。院長先生……」

 聞こえるように返事をした後、アンジュは肩を落とし、ふぅっ……と、小さくため息をついた。が、すぐに次の仕事に取り掛かる。休んでいる余裕はなかった。
 外からは、楽しそうに遊んでいる、同じ孤児院の仲間達の、きゃらきゃら、という笑い声が聞こえてきている。

 彼女の唯一の楽しみは、昼過ぎにようやく与えられた休息時間に、院に隣接する海辺に行って、そこにある椰子やしの木に登り、一人歌うことだった。
 今日も、午前中の仕事を全て終えた後、持っていたほうきを放り出し、走り出す。春のぽかぽかとした陽射しの下、緑鮮やかな葡萄ぶどう畑を通り抜け、白い砂浜とターコイズグリーンに煌めく海辺へ向かって行く。そして、一番大きな椰子やしに登り、てっぺんから海を眺めるのだ。

「ハロー。今日も、一緒に歌おうね」

 アンジュの姿を見つけ、ばさっ、と舞い降り、傍に寄ってきたオウムに話しかける。そして、お気に入りの讃美歌や童謡を、次々に歌う。
 毎朝、院の子供達が、院長とミサで歌っている楽曲だ。何度も復唱しているので、教本も楽譜も無しで歌える。彼女は共に参加していないが、少し離れた場所から、邪魔にならないよう歌うことは許されていた。
 朝の淡い光に照らされた、純白の十字架のオブジェを眺めながら歌う、この静かで神聖な時間が、アンジュは、とても好きだった。心がどれだけ沈んでいても、安らぎと頑張りを取り戻せる気がしたのだ。
 彼女の歌声には、不思議な魅力があった。聴く者の心を癒し、次第に浄化していくような、とても澄んでいて柔らかな旋律。しかし、それを知っている者、気に留める者は、一人も――いない。


「おぅーい!! お前も来いよー!! 楽しいぜー!!」

 暫くして、海の方から、屈託の無い元気な声がした。歌うのを止めて、声のする方へ顔を向けると、数人の仲間達がサーフィンをしていた。色とりどりのサーフボードが、ちらちら、と見え隠れしている。
 その中の一人……最近、孤児院に入ったばかりの、年下の赤毛の少年が、アンジュを誘ったのだ。

「えっ……?」

 驚きと期待が泡立ち、少し憂いを帯びたマリンブルーのを見張る。無理もなかった。院長が、彼女をメイド扱いする事が原因で、院に預けられてから一度も、他の仲間達と遊んだ事がなかったのだ。『アンジュは自分達のメイド』みたいな認識が、彼らの中で出来上がってしまっていた。

「おい。止めとけよ。あいつと遊ぶと、院長先生に叱られるぞ」

 隣のブロンドの少年が、すかさず止めに入る。

「あと、サーフィンに興味ない、出来ないらしいからさ」
「そうそう。ああして、ずーっと、木の上にいるのが好きなんだって。何が楽しいのかしらねぇー?」

 もう一人のブルネットの少年と、栗毛のお下げの少女が、笑い声を上げた。
 海に密接し、一年中温暖な気候なこともあり、この地域では、大人も子供もサーフィンを娯楽にする習慣があった。出来ない、興味の無い人間の方が圧倒的に少なかったのだ。

「やめなさいよ。あの子だって、好きで出来ない訳じゃないんだから」

 黒髪のポニーテールの少女も、そう言いながらくすくす、と嘲笑あざわらう。

「そもそもさぁ。あの子、あんまり喋らないし、いっつも、ぼやーっとしてるし、変だよねぇ? 私達となんか違うっていうか」

 アンジュは、自分に対するそんな会話を、じっ、と黙って耐えながら聞いていた。サーフィンが嫌いな訳じゃ無い。けど、昔から身体つきが小柄で細身。乳幼児期の栄養不足が原因だと医師には言われたが、運動音痴だったのもあり、どう頑張っても習得できなかった。
 何より、木の上で歌うことの方が、ずっと好きだったから、今までして来なかった。それはいけないことなのだろうか……?

「そっか。じゃあ、誘っちゃ悪いなー ごめんなぁー 」

 誘った赤毛の少年が、そう言って手を振ると、他の子達も、彼女の方を一瞥いちべつしながら、次々にサーフボードに乗った。あっという間に、皆、海面へ向かって行く。

 子供達の姿が、すっかり沖の彼方へ消えた頃、自分の目頭が熱く、水滴が溜まっていることに気づき、アンジュは下を向いた。必死に堪えたが、霞んだマリンブルーのから、一筋の雫が、ぽたり、と膝に落ちる。

「……ずっと、このまま?」

 友達も出来ず、ずっと一人きりで家事や雑用に追われる毎日…… 心に、大きな不安と孤独感が押し寄せる。

「……でも、この町の………葡萄ぶどう畑も、オウムも、この綺麗な海も空も、何より歌が、とても好きだわ。好きなものが沢山あるって、すごく幸せよね? それに、神様だって見ていて下さるし。大丈夫」

 ぐいっ、と涙を拭い、自分に強く言い聞かせた。

 ……いつも独りだった。心を許せる友達もなく、物心つく前に孤児院に置き去りにされた彼女は、親や家族の愛情というものを知らない。しかし、アンジュは、この世界の自然や生き物……花や動物を好み、を信じていた。

 ――いつか、きっと、神様が助けてくれる。

 小さな頃、院長の目を盗んでこっそり読んだ童話集、美しい絵本のお伽噺とぎばなしのような……奇跡を信じていた。
 抑圧され、狭く、閉じた世界の中でも、必死に明るく生きていたのだ。そして何より、彼女にとって歌う事は、生きていく為のすべ、命そのものだった。


 ……黄昏時たそがれどきがきた。ニューキャッスルの夕暮れは、至極美しく幻想的で、見る者を魅了する。この世の風景ではないような、優麗ゆうれい薄明はくめいの空間に、街中が染まるのだ。
 ターコイズグリーンの水面みなもが、オレンジ色の夕陽に照らされ、きらきら、と煌めきながら、青紫色に変化し、深いコバルトブルーの宵色に染まってゆく。毎日変わることなく繰り返される、この尊い瞬間が、アンジュはとても好きだった。

 しかし、それは同時に、今日の自由の時間が終わったことを意味する。この後も、眠りにつくまで、沢山の仕事が彼女を待っているのだ。
 そんな複雑な思いを振り払うかのように、アンジュは、もう一度、声高らかに歌い始めた。

 神様への、ありったけの感謝と……を求めて。

海からの遣い

 夏のある日の事。いつものように例の海辺の木の上で、つかの間の休息の時間をアンジュは過ごしていた。
 しかし、今日は、なかなか元気が出ない。いつもなら、歌うだけで気分が明るくなるのだが、先程、院の子供の一人が、優しそうな夫婦に養女として引き取られて行ったのを見送ったばかりだった。
 更に、昨日、叔母である院長が、彼女の養子縁組話をまた断っているのを聞いてしまったのである。馬車に乗り、頭を撫でられながら嬉しそうに笑っていた、あの子の姿が目にずっと焼き付いている。

「『幸せな家』、『愛される』って、どんななんだろう……」

 そっ、と呟く。こういう光景を見たのは初めてではない。十年間、何度も同じ表情をしながら、院を出て行った子を見てきた。その度に、いつか自分も…… と期待を膨らませながら、を待っていたが、一向に訪れる気配はない。むしろ、せっかくのチャンスを、院長が全て潰してしまっている。

「どうして、私だけ……?」

 普段、なるべく考えないようにしている思いが、ぽろり、と零れる。叔母は、自分を養女としては迎えてくれない事は、物心ついた頃から知っていた。
 孤児院を出なければならない年齢まで、ずっと一人で小間使いとして過ごすのかと思うと、目の前が真っ暗になる。その日は休むことなく近づいている。それに、年齢が高くなる程、養女として引き取られる可能性は低くなるのだ。自分の淡い夢は、叶わない……

 はあぁ……と、アンジュは、また大きなため息をついた。今度は、お腹から、深く、思い切り。

「今日は、ため息の日ね。お腹に、モヤモヤした怪物が住んでるみたい」

 そう言って、自分のお腹をさする。得体の知れないと向き合っているうち、歌詞とメロディが次第に浮かんだ。

『怪物さん。ご機嫌いかが?
 悪いみたいね。たくさんのため息ばかり。
 はぁー……はぁー……
 あなたは火を吹く怪獣なの?
 でも、あなたが悲しいと、私も悲しいわ。
 『親友』っていうのかしら?
 けど、あなたが嬉しい時、私はあなたのこと忘れてるの……』

 そんな歌はなかった。やけっぱちになったアンジュが、感情に任せて適当に作ったものだ。そこまで歌った時――

「……ふっ、ははっ」

 下の方から、軽やかな笑い声が聞こえた。驚いて、思わず下を見る。同じ年頃の少年が、陽に反射して細やかに瞬く、プラチナブロンドの髪を揺らしながら、くくくっ、と必死に笑いを堪えていた。

 ――今の、聞かれた……!!

 一気に顔が熱くなるのがわかった。それはもう火が出るんじゃないかと思う位。すぐにでも逃げ出したかったが、木の上にいる身ではどうすることもできない。

「……ごめん! 勝手に聴いたりして。そんなところで何してるの?」

 慌てふためき、そのまま転がり落ちそうなアンジュに、ようやく笑いが止まったらしい金髪の少年が、明るく声をかけた。

「……歌を、歌ってたの」

 緊張と焦りで渇いた口を開き、アンジュは、必死に言葉を絞り出す。

「何でまた?」
「……木の上で歌うのが、好きだから」
「へぇっ……!? それはいいなぁ!」

 ポップコーンが弾けたように、ははっ……と、少年は軽快に笑い出す。陽気で気持ちのいい笑い声が、辺り一面に響き渡った。
 アンジュは物凄く緊張していた。同じ年頃の子とこんなに話すのは、かなり久しぶりだったからだ。

 ――変に思われなかったかな……

 不安で少し青ざめている彼女に、その少年は、屈託の無い笑顔で続ける。

「ねぇ、降りておいでよ。友達も一緒に来てるんだ」

 手を振りながら手招きする少年。思いもよらない誘いだった。たちまち、胸の中が嬉しさでいっぱいになる。
 しかし、一方で、こういう状況に慣れてないので、不安や怖さもあった。でも、せっかくのお誘いだと、アンジュはありったけの勇気を振り絞り、固まった喉を、目一杯開き、空気を吸い込んだ。

「ありがとう…… 今、行くわ……」

 微かに震えた声だったが、真下にいる少年に届くよう、精一杯の言葉を放ち、木を降り始めた。慣れた動作で軽々と着地し、彼と初めて近くで向き合う状態になったアンジュは感嘆した。
 さらさら、と絹糸のようになびく、プラチナブロンドの短髪に、少し日焼けした小麦色の健康的な肌。くりっとした硝子玉のようなは、晴天の空のようなスカイブルーだ。背はアンジュより十センチ以上はあるだろう。
 サーフィンをするのか、白いサーフボードを抱えていて、群青色のウェットスーツが良く似合っていた。今まで、こんなに綺麗な男の子を見た事がなかったアンジュは、思わず見とれてしまった。

「どうかした?」

 少年が心配そうに尋ねる。慌てて、言葉を口から出す。

「ううん、何でもない。声をかけてくれて……ありがとう。えっと、あの……」
「フィリップ。フィリップ・ベルモント。よろしく!!」

 そう自己紹介しながら、爽やかな笑顔を見せて、日焼けした大きな手を差し出して来た。アンジュも、おずおずと荒れた白い掌を重ね合わせる。

「アンジェリーク……アンジュよ。孤児だから、姓は無いの……よろしく」

 一瞬、躊躇ちゅうちょしたが、なんとか自己紹介した。すると、少年……フィリップは、しっかりと握手しながら笑った。

「アンジェリーク、か。いい名前だね」

 陽光が射すような眼差しを返す。隙間から見えた整った白い歯が、真珠みたいに綺麗……とアンジュは見とれ、また吃驚びっくりした。初めて名前を褒められたからだ。今まで出会った人には、一度も褒められた事がなかった。
 それに孤児という部分に、一切触れて来ない。何故、この人はこんなに優しいのだろう……と不思議で仕方ない。

「ありがとう…… でも、どうして? そんなこと、初めて言われたわ」
「僕の国の言葉だと『天使のような』とか、『天使の輪』って意味だよ。素敵じゃないか。それに『アンジェ』っていう街もあるんだ」

 ――そう、なんだ……

 アンジュの冷えた胸の奥が、少しだけ温まる。『父親のくせに、お前を置いて逃げたんだよ』『だらしなくて、兄だけどろくでもない男だった』と、院長からずっと聞かされていて、そんな親に悲しみや恨みを感じた時もあった。
 けど、そんな素敵な名前をつけてくれたのだと、少し救われたような気がする。そして、そんな良いことを教えてくれた彼に対して、感謝の気持ちでいっぱいになった。

「ありがとう…… あの、貴方はオーストラリア人じゃないの?」
「僕は、フランス人。たまたま休暇でこっちに来てる。父の別荘があるんだ。今日はサーフィンしに来たんだけど、まさか木の上に女の子がいるなんてね。初めは、蜂蜜色のコアラかと思ったよ」

 そう朗らかに言い、けらけら、とフィリップは再び笑い始めた。

 ――笑われてるのに……ちっとも、嫌じゃない。

 今まで、馬鹿にしたように笑われる事はあったけど、こんなに優しく接しながら笑ってくれる人はいなかった。

 ――この人こそ……天使だわ。

 アンジュは思った。神様が遣わせてくれたのだと……

「フィリップ!!」

 快活な女の子の声が、辺りに響いた。フィリップと同じ、白いサーフボードを手にした、薔薇色のワンピースを着た同年代の少女が、こちらに向かって颯爽と歩いて来る。マロン色の長い髪をサラサラ、となびかせ、満面の笑みで手を振っている。

「エレン!!」

 フィリップも笑顔で叫んだ。二人の近くまで来た、エレンと呼ばれた少女は、アンジュの姿を見て、少し驚いた顔をした。キャラメル色の大きなが揺らいだが、すぐに明るい笑みに変わる。

「何よ。ナンパしてたの?」

 エレンは、からかうように彼の肩を小突いた。そんな彼女に、フィリップは「違うよ」と、照れながら弁解している。
 親密そうな二人の様子を見ていたアンジュは、胸の奥が、ちくり、と少し痛むのを感じたが、その理由は、この時はまだ分からなかった。

「紹介してよ。 私、エレン・ハミルトン。フィリップとは幼なじみなの」

 心なしか、少し勝ち誇ったように微笑みながら、手を差し出してきた彼女が少し気になったが、アンジュもおずおずと手を差し出し、はにかみながら握手した。

「アンジェリーク……アンジュです。孤児だから、姓は、無いの。よろしくお願いします」

 二人ともアンジュと同じ年頃らしかったが、なぜか敬語を使ってしまっていた。しかし、エレンはそのことには触れず、「孤児……?」と長い睫毛を、ぱちぱち瞬かせ、怪訝そうに小さく呟いた。
 一方、アンジュは、彼女が着ているフリルが施されたワンピースが、とても眩しくて見とれていた。こんなに素敵な服は、今まで見たことがなかった。お金持ちのお嬢様なのだろうか。そういえば、フィリップもどことなく品の良さが滲み出ている。
 自分が着ている、着古して色褪せた薄いグレーのワンピースが、急に恥ずかしくなってきた。なぜだか、彼の前だと余計にそう思ってしまう。そんな初めて感じる種類の気持ちに、内心戸惑う。

「僕ら、これから一緒にサーフィンするんだけど、君もどう?」

 そんな彼女の複雑な思いを知ることもなく、フィリップは屈託のない笑顔で言った。既に、エレンはワンピースを脱ぎ始めている。下にウェットスーツを着ていたらしい。これも、綺麗な真紅のスーツだった。

「えっ…… ごめんなさい。サーフィンはちょっと……」

 アンジュはまごついた。苦手なサーフィン。おまけに嫌な思い出もある。

「そっか。残念だなぁ」

 フィリップは特に気分を害した様子もなく、ボードの手入れを始めた。

「じゃあ、見ていきなよ。結構、自信あるんだ」

 そう勧め、にかっ、と笑う。すると、「え……できないの?」と、少し呆れたようにエレンが追求した。途端に小さくなるアンジュ。

「いいじゃないか。見てるだけでも楽しいだろ?」

 明るくフォローするフィリップに救われ、少し躊躇ためらったが、彼の言葉に甘えることにした。誘ってくれたのも、庇ってくれたのも嬉しく、ふわっ、と今日初めてのささやかな笑みが浮かぶ。
 そんな二人の様子に、エレンは大きなを更に見開き、少し面白くなさそうな顔をしたが、すぐに海へ繰り出して行った。

 そんな彼女の様子が少し気になったが、この時のアンジュは、初めて『友達』と呼べるかもしれない人に出会えた喜びでいっぱいで、さほど気にとめなかった。
 見慣れた空、聞き慣れた波音。いつもの海辺の風景。しかし、普段よりもずっと、生き生きしているように見える。
 誰かと一緒に過ごすというだけで、こんなに世界が違って見えるものだなんて。あんなに嫌だったサーフィンの苦い思い出も、たちまち素敵な思い出に塗り替えられていく……

 あまりに楽しくて、嬉しくて、これからこの二人のことで、悲しい出来事が起こるなんて、アンジュは思ってもいなかった。
 人と関わることで生まれる、悲しみも、苦しみも、この時は何も知らなかった幼い彼女を、夏の強い陽射しが、ジリジリ、と照りつけていた。


 #創作大賞2023  #恋愛小説部門 

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