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戦火のアンジェリーク(11) 3.Wales ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』の第3幕部分(★はR15描写あり)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

概要

3.Wales ~ the UK

間奏 ~ 救済


 闇から逃れるように辿り着いた場所は、青々とした草原と荒涼こうりょうな大地、連なる山脈、石造りの街に守られていました。
 心地好い薫風くんぷうが吹き抜け、草花の香りが漂い、牧羊ぼくようの鳴き声が響く、のどかな風景。

 温かく素朴な料理、軽快なブラスバンド、飾り気なく豪快に笑い、陽気に歌う人達…… 皆さんは、ここは凡庸ぼんようで娯楽も何もない、労働者ばかりの退屈な所だ、と言いました。

 ですが、私にとっては、きらきらした温かな光と、甘いお砂糖が降りかかった、生まれて初めて感じる、穏やかで、何よりも尊いものでした。

 大切な人と平和に暮らすこと。一緒に食事をして、何でもないことを話して、笑って、ぶつかって、泣いて、触れて、抱き合って眠ること。
 身体ごと、心を愛し合うこと、その人の子を授かって、親となること。
 幾千年もの長い年月の中で、地球の人間……生物が繰り返してきた営み……

 ――たったそれだけのことが、どうしてこんなにも、困難で、脆くて、呆気ないのでしょうか。

 もし、神様が全て見ておられるのなら、今のこの世界を、どうお考えなのでしょう。
 ある日、突然。罪無き人の命が簡単に奪われ、日常が壊される。
 平和をいていた人が、命賭けの戦いに参加するという哀しい事態。
 悲しみ、嘆き、泣いて、叫んで、絶望して……自ら死を選ぶ命までが存在するという、人間ヒトの酷な現実。
 生き物らしく、普通に生きることすら赦されない。そんな理不尽な世界が、存在して良いのですか……?

 全てが崩れ落ち、終わってしまった所には、何が救いになるのでしょう?

 神様は、本当にいらっしゃるのですか……?

 幸せを呼ぶという、青い鳥は、どこにいるのでしょう……?

 ――どうか、これ以上……もう、何も壊さないで……


吹雪く発露


 ようやく辿り着いた、深夜のロンドン駅。闇夜の中に黒々と浮かぶ蒸気機関車が、見る者を威圧させる重厚感を放ちながら、最終便の発車を待っていた。
 濃灰の煙を盛大に噴き上げ、甲高い雄叫びのような汽笛をとどろかせている。そんな緊迫した状況に間に合ったアンジュとジェラルドは、車内に駆け込むように乗った。
 これから、夜行列車の中で一晩を過ごすつもりだ。人気ひとけはあまり無い。目立たないよう、なるべくすみの座席を選び、四人掛けの場所に向かい合わせで座った。
 ガタン……ゴトン……という振動と共に走り出した列車が、冬の闇の中を進み始めた。しゅ、しゅ、と噴き出す蒸気に合わせ、車輪がせわしなく回る音が、車内まで聞こえてくる。次々と横切る景色は真っ暗で、今からロンドンの街を離れようとしている実感が、アンジュにはあまり湧かなかった。

「……冷えてきたな」

 向かいの席で腕組みをしたジェラルドが、少し眉をひそめて呟く。暖房器具が乏しい車内は、快適とは言えない。結露が浮き出た窓から、アンジュは外を覗いた。ガラス越しに降り注ぐ、白い粉砂糖のようなものが、宵闇を横流れに埋め始めている。

「雪が……降り出してます。吹雪そう……」
「寒くないか?」
「ジェラルドさんの部屋から、これを持ってきました。」

 小さく丸めた、濃いネイビーの薄手のブランケットを、ボストンバッグから取り出す。ジェラルドは感心したように言った。

「準備がいいな」
「鞄に入らなかったので……一枚しか無いですが」
「君が使えばいい」
「そんな、ダメですよ。一緒に……」

 『使いましょう』とブランケットを差し出したが、言葉を止め、アンジュは俯いた。自分が言った事の意味に気づき、向かいの席の彼の顔を見られない。
 そんな彼女の様子に、ジェラルドは少し動揺した後、なるべく平静を装い、頼んだ。

「……持って来て、くれるか?」

 緊張とほのかな喜び、慣れない甘さを毛布ごと抱え、アンジュは手荷物と共に、ゆっくりと向かいの席に移る。窓際の彼の左隣に座った瞬間、ジェラルドは素早い動作で毛布を広げ、彼女の身体ごと、自身をくるんだ。
 ブラックとカフェオレ色の二種のウール生地が、しゃり、と密着して触れ、同時に温かなウッディ調の香りが、ふわり、とアンジュの鼻腔をくすぐる。

「あったかい……」

 あまりの心地好さに、思わず零れ出た彼女の言葉に、ジェラルドの体温が一気に上がった。が、また普段通りのペースを保つ。

「なら……良かった」


 じわじわ、と次第に温もりを増していく自分の身体と、恋しい彼と密着している状況が、段々と気恥ずかしく、居たたまれなくなってきた。気分を紛らわしたくなったアンジュは、ふと窓を見やり、何気なく話題をふる。

「……こんな雪の日にクリスマスだと……素敵でしょうね。温かい暖炉があって、キャンドルの灯りが綺麗で……」
「……見たこと、無いのか?」
「オーストラリアでは、夏の行事でしたから」

 思わず、ジェラルドは彼女の顔を見る。そう言えば、生い立ちについては、あまり聞いていなかった。

「いつもより長いミサが終わった後、孤児院に水着姿で赤い帽子をかぶった慈善事業の方が来て、子供たちにお菓子や人形、絵本などをプレゼントして下さったんです。皆、それが年に一度の楽しみでした」

 その場面を想像して、ジェラルドの口元が僅かに緩む。彼にとっては非常にユニークで、微笑ましい光景だ。

「院の子供ではなかった私にも、叔母……院長に内緒でくださった方がいて、とても嬉しかったのを覚えています」

 意外な背景に、少し驚いたジェラルドを他所よそに、少し哀しくも、話していて懐かしくなったアンジュは続ける。こんな話ができたのは、随分久しぶりだった。フィリップとの会話以来かもしれない。

「こちらに来て、真っ白い雪景色のクリスマスに驚きました。礼拝堂の催しの仕事が忙しかったので、ゆっくりは出来ませんでしたが……」
「……ウチもその時だけは、昔から一家揃って食事をしたが…… ほぼ無言で、おごそかというより気まずい雰囲気で……それらしい思い出は、無い…… 夏のクリスマスか……面白いな……」
「ジェラルドさん」

 回想しながら独り言のように呟く、彼を凝視する。この人も、穏やかに楽しく家族と過ごすクリスマスを知らないのだ。
 そして、お互いについて知らない事が、まだ沢山あるという事実に、改めて気づく。少し寂しくなったが、同時に不思議な甘い高揚感が生まれた。
 これからは、今までより沢山、彼と一緒にいられる。もっと色んな事を話して、聞いてみたい。それが許される状況になれた事が嬉しく、アンジュは安堵した。


 ほうっ……と、軽く息をつく。すると、ぶるっ、と身体が芯から震え、はっ、はっ……と、息遣いが微かに、荒くなり始めた。思わず胸元を押さえたアンジュを、驚いたジェラルドが凝視する。彼女の片方の目から、一筋のしずくが零れ落ちていた。

「……すみ、ません。なんだか、今頃……」

 の最中も、邸宅から彼と逃げ出す時も、震えはあったし不安でいっぱいだったが、こんな風に泣くことはなかった。
 気持ちが落ち着き、安心したからなのだろうか。ずっと張り詰めていた糸が、ぷつり、と切れてしまったようだ。

「大丈夫か?」
「は、い…… 少し、息苦しいだけです……」
「……本当に、すまなかった」

 深々と、ジェラルドが改まった素振りで頭を下げる。慌ててアンジュは否定する。

「ち、違います……! 私が、望んで……やったことです……」
「……俺とアイツの問題に、巻き込んだ」
「そんな、風に……言わないでください…… 貴方には、言わないで……ほしいです……」
「アンジュ」
「もう、傷ついてほしく……なかったんです」

 涙混じりに訴えるアンジュは、細かく震える両手で、先程の乱闘で傷ついていない方の、彼の左手を包む。そうすると、少しだけ落ち着く気がした。

「……俺だって、あんな目に……遭わせたくなかった」

 重い声色で悲しげに呟き、ジェラルドはゆっくりと身体を寄せ、その手で躊躇ためらいがちに、アンジュの肩を抱いた。一瞬、固まったが喜びが溢れ、ゆるり、と彼のコート越しの胸に額を当てる。静かに聞こえる心音が、安らぎを呼び戻してくれるようだ。
 少し周囲を伺った後、いつかの夜のように、アンジュの冷えた額と頬に、ジェラルドはそっと唇をあてた。何度か不器用に慰め、温めて労るような、謝罪の口付け。だからか、唇は避けた。公共の場だから……という理由だけではない。
 成り行きとはいえ、共に旅することになり、ようやく二人だけになれて、こんなにすぐ側にいるのに、どこか遠く心許ない。好いた人を守りたくて身を捨てた事で、その人との距離が開いてしまったのが、アンジュは悲しかった。
 そんな、自分を求める寂しげな眼差しに、ジェラルドは気づいていた。だが、自分の想いが引き金になり、その大切な人が危機に陥って傷ついたという事態を、まだ受け入れられない……

「……もう、休もう」

 そのまま彼女の後頭部を包み、ジェラルドは目を閉じた。そんな彼の横顔を、複雑な思いで見つめたアンジュは、これから私達はどうなっていくのだろう、という不安を打ち消したく、軽く深呼吸してから自分もまぶたを下ろした。

 翌日も鉄道を乗り継ぎ、手持ちの現金で行ける所まで西へ向かっていた二人は、ウェールズ地方の首都、カーディフで一度下車した。真っ先に質屋を探し、ジェラルドは持参していた貴金属の一部を手放し、現金に換金した。暫くの間の生活費にする為だ。
 さすがに一日中の旅で、くたくたになった二人は、疲れをとる為、今夜は宿屋を訪れ、二人用の部屋に泊まる事にした。スコットの親友夫婦が住んでいるという町は、もう少し遠い上、宿屋があるかわからない。
 今日は、朝方からずっと雪で、夜更けになっても小降りだった。そんな英国の部屋は、ストーブを焚いても、なかなか暖まらない。

「……疲れただろう。もう少しで、スコットさんの友人の町に着く。グレアムというらしい」

 宿の室内に入ったジェラルドは、敢えてアンジュと目を合わせず、そう告げながらコートを脱ぎ、首もとを緩めて一息ついた。そんな何気ない仕草にすら、自分もコートや帽子を取りながらも、アンジュの心臓は揺れ動く。
 節約の為に一つの部屋にしたというもの、一晩を密室で共に過ごす…… 二人きりの夜は二度目だが、そんな状況が双方の心を乱していた。惹き寄せるように漂って来る、互いのオーラが気になって仕方ない。

「俺はカウチで、この毛布を被って寝る。そのベッドは君が使え」

 昨夜も使ったネイビーの毛布を広げ、淡々と当たり前のように提案する彼に、アンジュは慌てた。足元は冷え込んでいる。彼が座った質素なカウチは固そうで、寝心地も悪そうだ。

「えっ、そんな。ダメです」
「今夜もかなり冷える。君は体調が悪いだろう。きちんと休んだ方が……」
「……あ、の」

 覚悟を決めたように、ジェラルドの深緑の瞳を見つめながら、アンジュが思い詰めた表情で申し出た。

「……お、願いです。今夜も……すぐ近くに、側にいて、くれませ、んか? 怖い、んです……」

 これから先のことが不安で堪らない中、先日の事件がきっかけで、彼との関係が変わってしまう気がしていたアンジュは、その事に一番怯えていた。それに、自分のせいで、彼をこんな冷えた場所に休ませるのも、嫌だった。
 若い男性と寝室で二人きりの状況は、二度目だ。落ち着かなくて不安だけど、とは、違う。それに……

「……な、にを言……」

 揺れる瞳孔を見開き、ジェラルドは絶句した。しかし、反面、妙な躍動と歓喜が、身体全体を駆け巡る。そんな自身に動揺し、狼狽うろたえた。

「ダメ、ですか……?」

 彼女の身体が細かく震えているのはわかっていた。しかし、だからこそだと、ジェラルドは自身を律し、制した。

「……悪いが、俺も、だ」

 身も蓋もない言葉と鋭い拒絶に、反射的にアンジュの身体は硬直し、固まる。それでも、激しい想いが関を切ったように溢れて、止まらない。沈んだ心に鞭打ち、とうとう、切り出した。

「……あの人に触られた私、は……もう、嫌ですか……?」
「違う!!」

 思わず声を荒げ、ずっとたかぶっていた本音を、ジェラルドは言い淀みながら、吐き出す。

「……何をされたか、知らないが……似たようなことを、多分、俺も……するぞ?」

 彼女に言い聞かせたく、一言、一言をしっかりと告げ、自分から逃げられるように背を向け、距離をとる。
 そんな彼のシビアな言動に茫然としたが、衝撃を呑み込み、アンジュは後を追う。惹かれて止まない背中にしがみつくように抱きつき、薄紅に染まった顔を埋めた。
 恐怖以上に、どうしようもない心細さと激しい焦燥が、心の中で甘く匂い立ちながら混じり合い、渇望するように沸騰している。

「……こういう、事は、よく……わからないですが……」
「ア、ンジュ……?」

 背中全体に感じる、彼女の温かな体温と柔らかな感触が、ジェラルドの心を大きく揺さぶる。珍しく、動揺した声色が、震えて零れた。そんな彼にアンジュは白状した。誤解してほしくなかった。貴方のせいじゃない、と伝えたかった。

……もう、身を捨てるしかないと覚悟した時…… 今からされる事は、全て貴方からだと思い込めば……耐えられるかも、って思ったんです……」
「…………!?」

 背後から耳に飛び込んできた信じ難い言葉に、ジェラルドの心臓が、跳ね上がった。

「す、き……です……」

 熱く詰まる胸の奥から、精一杯の想いを絞り出す。か細く、切なる声で、アンジュは生まれて初めて、、をした。

「だから、一緒に、いてく……」

 そこまで言った瞬間、握っていた白いシャツが反転し、気づけば、目の前に彼の胸元があった。懐かしい心地好い匂いと、身体を締め付ける腕の力が、苦しい位に甘い高鳴りと、高揚した安堵感を誘う。

「……何故、今、ここでそんなことを言う……!? 頼むから、もう煽るな……!!」
「ジェ……」

 小さな驚きの声を漏らし、彼を見上げたアンジュの唇は、塞がれた。昨夜の慰めるような優しいキスとは違う。柔らかな刻印を押し付けるような、激しさを伴う口付け。角度を何度か変え、彼女全てを喰らうかのように掻き抱き、腕、身体全体を使い、迫る。
 ずっと求め続けていた、乞いて止まない甘美な感触だった。今はもう二人を遮るものも、障害も、何も、無い……

 無音の空間が、湿度を帯びたつやめく熱で満ちる。宿の外で、舞うように降り続けている粉雪は、とうとう吹雪始めた。
 初春の雪は、時が経つ程に勢いを増し続けている。が、どこか散り散りで、儚く……危うかった。

★近くて遠い一夜


 何度か唇を重ねられているうち、次第に息苦しくなったアンジュは呼吸を求め、口を僅かに開けた。直ぐ様狙ったように、質量あるジェラルドの舌が入り込んで来た。彼女の小さな舌を捕らえ、口内を味わうようになまめかしく動き回る。
 初めて知った行為の衝撃で錯乱していく思考の中、自身の内でじかに彼の熱い体温を感じられている、という状況がアンジュには嬉しく、胸奥がきつく絞られ、打ち震えていた。

 暫し後、自分のものではない苦しそうな吐息で我に返ったジェラルドは、名残惜しそうに唇を離した。眼を涙で潤ませ、頬を薄紅に染めているアンジュを抱きかかえ、ダブルベッドへ押し流すように仰向けに倒す。
 自分と彼女のブーツの紐を素早く解き、床に脱ぎ捨てる。しっかりと両手を繋ぎ、柔らかなマットに縫い止めると、明らかに戸惑い、動揺しているアンジュを覗き込むように、身体全体で覆い被さった。
 夜露よつゆに濡れたベリーに変化した、彼女の丸い唇が酩酊めいていした視界に映る。

 ――可愛らしい……喰ってしまいたい……

 そんな衝動と共に、再び自身の口で包み込み、僅かな隙間から舌を割り入れる。口内を舐めるとしたたる、ほのかに甘い液を吸い上げ、流れ落ちる自分の唾液と絡ませる。
 そんな慣れないえんな行為が、ジェラルドを次第に酔わせた。何度も繰り返される深いキスが、想いを通わせたばかりの若い恋人達を、じわり……じわり……と蕩けさせてゆく。

 ――ずっと……ずっと、俺は、彼女にこうしたかったのだ……
 ――こんな風に、自分の全てで抱き込んで…… そんな夢を、何度も、何度も……見たような気がする……


 再び苦しそうな素振りに変わったアンジュに気づき、ジェラルドは慌てて、再び顔を離した。真下に映った涙を滲ませ赤らんだ表情かおに、けほっ、と軽く咳き込む音。はぁ……は……と、異なる二種の呼吸音が、狭い室内に響いていた。

「……さわって……いい、んだな?」

 荒い息遣いのまま、いつもより一層低く、ぴん、と張り詰めたチェロの音色が、艶やかに響く。欲をはらの目付きと表情に変化したジェラルドは、躊躇ためらいがちにうかがった。
 いつものの色ではない。深緑のダークグリーンでも、ペリドットでもなかった。萌える若葉のような、刹那的な炎がえんに揺らめいている。
 驚きと恍惚こうこつの混じった表情のまま、こくん、とアンジュは首部こうべを上下に動かす。心臓はかつてない程に暴れている。いつもの彼と様子が違うのは、少し怖かった。
 しかし、先程、深く触れ合った時に感じた幸福感、甘い高鳴りの方が、遥かに勝っていたのだ。口枷くちかせは恐ろしかったけれど、唇を守れて本当に良かった……と、熱に浮かされたような脳裏に安堵がよぎる。が、今の自分の状態を思い出し、少し血の気が引いた。

「あ、私……からシャワーを浴びてな……」

 の身体を、彼に見せるのはさすがに抵抗があって、途端に怯え、躊躇ちゅうちょする。しかし、ジェラルドの目付きは悟り、わっていた。

「そのままでいい」

 ぴしゃり、と有無を言わさぬ物言い。許容というよりは、彼女の身体に刻まれた忌むモノへの威嚇を剥き出しにしている。

「アイツに……どこを、触られた?」
「…………!?」

 あの事が瞬時に甦り、なぶるような震えが、アンジュの全身に走った。顔が少し歪む。思い出すのは、やはり辛い。

「……悪かった。言わなくていい」

 察して決まり悪くなったジェラルドは、詫び、なだめるように額に口付け、改めて体制を整えた。ぎしり、と古いスプリングが軋む音が、響く。

「ジェ……ラル……ドさん……」
「怖くなったら……我慢しないで、叩いてでも止めてくれ…… いいな?」

 不安と喜びの混じった声色で自分の名を呼ぶアンジュに、しっかり言い聞かせるよう、喉奥から絞り出す。いつになく艶々えんえんとした閃光ひかりが揺らめく、彼の若葉色の瞳が視線を捕らえ、反らせない。
 片手で彼女の頭部を髪ごと包み、細い首筋、鎖骨にかけ、唇をゆるやかについばみながら這わせる。ざらついた舌先で優しく舐めると、慣れない感触に驚き、小鳥のさえずりのような声が、アンジュの口元から零れた。
 ワイン色のカーディガンとブラウスのボタンを、ジェラルドはぎこちない手つきで一つずつ外していき、胸当ての止め金を緩める。それだけで心臓が、きつく、甘く絞られる気がしたアンジュは、思わずまぶたを閉じた。
 胸当ての隙間から、慎ましげながらも柔い膨らみを、ゆっくりと、慎重に触られていくのが判った。

「……ジェ……ドさ……」

 瞬時に彼の名を口にし、無意識に漏れ続けていた自身の声に気づく。途端、激しい羞恥が襲ったアンジュは、慌てて手の甲で口を塞いだ。
 彼の長い指が胸元で湾曲する度、なまめかしい自身の吐息と共に、甘い炭酸水が全身を走り抜けるような粟立ちを感じる。


 ……あの時。似たような事をされた記憶はあった。だが、何も見えないよう、なるべく感じないようにまぶたを閉じ、意識を、自分全てを殺していた為、未知の刺激による妙な違和感と、身体中を好き勝手に触られた嫌悪感しか覚えていない。
 そんな忌まわしい記憶が微かに甦る度、軽い眩暈、不快な震えが起こった。手の力が緩み、甘い声はうめきに変わる。

「う、あ……」
「アンジュ」

 小さな悲鳴のような声が耳に入り、彼女の耳元で、ジェラルドは心配そうに呼んだ。覚えのある、静かに響く低音の声に惹かれるように、涙で覆われたマリンブルーので、彼の顔を見る。

「……もう、止めるか?」

 いつになく真剣で、どこか思い詰めたような表情で問う恋しい人。不安、労り、焦り、そして、熱を含んだ艶のある若葉色のが、自分の様子を伺っていた。
 似た色味だが、とはまるで違う眼差し。自分をひたすら気遣い、慈しむような優しい触れ方……
 今、自身の全てを預け、ゆだねているのは、目の前のなのだ、と認知し直したアンジュは、静かに首を振った。

「……わかった」

 緩んだストラップをずり下げ、シュミーズと胸当てを腰元まで剥がし落とす。白く柔らかな膨らみが視界に映った瞬間、熱い血流が雪崩なだれ込むように、ジェラルドの目元を襲う。思わず、額を片手で被った。

「ジェ……ラル、ドさん……?」

 突然、行為を中断し、微動だにしなくなった彼が心配になり、アンジュは恐る恐る、か細く声をかける。何か気に障ったのかと心配になったのだ。

「……あの、大きくなく、て……ごめんなさい……」

 豊満とは言えない胸と、細過ぎる身体にがっかりさせてしまったのだと思ったアンジュは、きまり悪そうに彼から視線を反らし、両手で隠そうとした。
 細い指の隙間から見え隠れする、ピーチスキンに染まった肌が、ジェラルドにはとても扇情的に映る。懸命にありったけの理性を保っていた彼の脳内に、霹靂へきれきの稲妻のような一撃を与えた。一瞬、意識が飛びそうになったが、ぐっ、とこらえ、なんとか努め抑える。

「……違う。気に、する……な」
「…………?」

 一層、押し殺した声で否定する彼に困惑するアンジュを他所よそに、ジェラルドは意識を切り替えた。まだ冷えている部屋の空気から守るように、自身ごと備え付けの厚手の毛布を被る。
 そんな薄暗がりの中でも判る、彼女の白い肌に薄く残る、忌まわしい痣を探しては、上書きするかのように自身の唇で強めに挟み、吸い付く。双の柔い膨らみは、再び掌で包み崩し、指で撫でた後、そっ、とむようにキスをした。瞬間、一際高らかなが、抑えていたアンジュの口元から漏れる。
 その声に煽られたジェラルドは、腰元から腹のすべやかな素肌を撫で、そこもでるように唇をあてる。次第に、強張っていた彼女の身体の力が抜け、細かな息遣いと彼の名を呼ぶ声が、儚げに零れ続けた。
 そんな口元を必死に抑えながら、すがるように自分の腕を掴み、抱きついて来ようとする。そんなアンジュが、ジェラルドにはいとおしくて堪らなかった。マシュマロのような感触の肌に触れては、無我夢中で触れては撫で続ける。
 少しずつしっとりした感触を帯び出した彼女の身体から漂う、ミルク混じりの蜂蜜のような甘い香りが、キスをする度に鼻腔をほのかに擽り、心地好さを増幅させた。

 ――可愛い……いとおしい……俺でいいなら、あんな記憶、全て消してやりたい……
 ――もっと触れたい……もっと見たい……知りたい…… もっと……このひとが、ほしい……

 狂ったように絶え間なく勢いを増し、凄まじく自身を支配してくる、この熱く燃え上がるような衝動は、一体何なのだろう……
 女性の身体に触るのは、実は、初めてではなかった。貴族の男の戯れと言われ、成人して間もなく、高級娼婦を迎えた事がある。しかし、自分に向けられた剥き出しの欲望を目の当たりにし、性への苦手意識が、ますます酷くなっただけだった。
 しかし、今の自分は、大切な花をでるように、尊い宝物を壊さないよう扱いながらも、切なる渇望、恋しさが、どこかが壊れてしまったように溢れて止まらない。
 何があっても自分が守る。だから自分だけのものにしたい、という強烈な庇護欲と独占欲に駆られ、一心不乱に抱いている。そんな自分の激情が信じられなかった。
 満たされた、幸福感。そんな言葉が脳内をよぎり、『もしかして、これがそうなのか』と、思い知らされたような気がした。


 少し躊躇ためらった後、そっ……と、アンジュのウールスカートの中に手を差し入れた。下着ペチパンの上から探り当てるように、びくついた足の付け根、内股付近に触れる。

「…………!? な、ん……で、そん……なとこ……?」

 くらくら、と陶酔したような意識の中、自分でも知らない部分を、よりによってに触れられ、反射的に下腹部がざわつく。既に自分が自分で無くなりそうなのに、今度こそ羞恥でおかしくなるんじゃないか……とアンジュは思った。

「……ここは? 触られたか?」

 妙に神妙な面持ちで、そんな事を尋ねてくるジェラルドが不可解で、ふるふる、と真っ赤になった顔を急いで左右に振る。そんな彼女の様子は、嘘をついているように見えなかった。

「同じ感じ、で少し…… あと、足を……」
「……そうか。これ以上、は……?」

 聞くのは恐ろしい問いだ。聞きたくない答えの場合、自分の精神が潰れてしまうかもしれない。しかし、この事からは逃げられないと、腹をくくった。

「これ、以上……? あの……?」
「その……見られた、とか」

 言いにくそうに問う彼に、アンジュは、また思い切り首を振る。

「……そうか」

 途端、『良かった』という安堵で、がくり、と全身の力が抜けた。今でも狂いそうなのに、これ以上、あの男に何かされていたらどうしようかと怖れていたのだ。
 ……気遣いや罪悪感と共に、いや、それ以上にったのは、独占欲だった。彼女は今でも十分辛いだろうに、どうやら処女を奪われた訳ではなかったようで、ほっとしている。
 同時に『このまま、を見たい。自分のものにしてしまいたい』という、エゴイズムな性的衝動も湧き出す。
 自分の想いは、決して綺麗な気持ちだけじゃない。こんなどうしようもない情欲に満ちた烈な激情が存在していた事が、根が真面目なジェラルドには、ショックだった。


「……もう、止める。悪かった」

 ゆらり、と身体を離し、力無げに詫びを言う。

「え、あの……」
「君は疲れているし、これ以上……は、今するべきじゃない」

 『これ以上』とは、具体的に何をするのだろう。そんなに負荷がかかる事なのか。『特別な人としかしてはいけない、裸になって触れ合う神聖な行為』という知識しかなかったアンジュの脳裏に、そんな素朴な疑問がよぎる。
 もう少し問いかけたくなったが、彼の狼狽うろたえぶりを見ていると、軽率に口にしてはいけない事のような気がした。

「どういう事か、よくわからない……ですけど…… 多分、貴方となら、嫌……じゃないです、よ?」

 とどめの追い討ちに遭ったような心境になり、ジェラルドは内心、頭を抱えたが、片言で告げた。

「……また、その時……教え、る……」
「ありがとうございます」

 汗と疲労がうすらとにじむ顔で、恥じらいながらも嬉しそうにはにかむ彼女に、これから自分はどうしていけば良いのか、改めて悩まされてしまうジェラルドだった。


↓次話


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