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戦火のアンジェリーク(7) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第二幕部分(R15)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

2. London ~ the UK

密やかな演奏会


 この大恐慌で職を失った一部の者が、そのような体を売る仕事をしているらしいとも、何度か耳にしている。ロンドンに来るまで知らずにいたが、もしかしたら自身もその類いの道を歩んでいたかもしれない、と肌で感じていたのだ。

「卑しい血が騒ぐのかな。誰でも歓迎、みたいなさ。正統な血筋の俺には、真似まね出来ないね」

 ははっ、と不快な笑い声を上げるロベルトに、アンジュの身体の奥底から、煮え滾るような熱い塊がふつふつ、と沸騰し始めた。震える程ののような思いを覚えることは、ロンドンに来てからは何度かあったが、今回は、違う。の面影が、揺らめくように幾つも重なり、更に燃え上がるような衝動。
 そんな未知の感情を、どう扱えば良いのかアンジュにはわからない。ただ、『これだけは許せない』という強い意思だけは、はっきりと自覚していた。気づけば相手が客だという事も忘れ、変換されたが、喉から絞り出されるように――放たれた。

「ひ、どい……!!」
「え?」
「どうして、そんな風に言えるんですか? 家族……貴方の、たった一人の血の繋がった弟でしょう!? 親が誰だろうと、どんな人だろうと、ジェラルドさんはジェラルドさんじゃないの……!?」

 言いながら彼の笑顔とも言えない、歪んだ微笑が脳裏に浮かんでいた。

 ――あの人は、いつも一人だった。家族といても、ずっと、だったんだ……

 自分でも知らないうちに、目から涙が零れていた。従順と思っていたアンジュの意外な剣幕に、ロベルトは一瞬、怯んだ。しかし、すぐに元に戻って口を開く。

「へぇ、噂は本当みたいだね。だけど君もやるねぇ。楽団の連中に聞いたけど、君、孤児なんだって? 大人しそうな顔して、結構したたかだね」

 そう毒づきながら、獲物を見つけたハイエナのような目付きでじりじり、と壁際に追い詰める。怒りに恐怖が加わり、アンジュの膝がぶるっ、と震えた。

「俺はどう? あいつと違って正真正銘の公爵令息だよ? まぁ、愛人ならいいよ。最近、妙に垢抜けて名前も売れてきたしねぇ」

 口元がにやつき、いやらしく笑いながら彼女の肩を抱こうとした。

「!? や、めて下さい!!」

 強烈な寒気と危険を感じ、その手を払いのける。相当な女好きで遊び人だと、彼が噂されていたことを思い出した。プライドを傷つけられたのか、にやついた笑顔から一転、悪魔のような形相に変わったロベルトは、アンジュの二の腕をきつく掴む。

「なめんじゃねぇよ。ただの歌い手のくせに……! 来いよ」

 ドスのきいた声色で吐き捨てた瞬間、そのまま細い腕を引っ張り、強引に歩き出そうとした。

「!? は、放し、て……!!」

 強烈な嫌悪感と恐怖に駆られ、アンジュが小さく悲鳴をあげた瞬間、ふっ、と掴まれた腕が軽くなった。不思議に思い前方を見上げると、ロベルトの腕を思い切り捻り上げ、真の悪魔のような恐ろしい形相のジェラルドがいた。
 シャープに伸びた眉は、これでもかという位に吊り上がり、ダークグリーンのはペリドット色に変化し、今にも突き刺すような眼光で彼を睨み付けている。

 ――どうして……?

 安堵と疑問の混じった感情をアンジュが抱いていると、抑揚の無い、尚且なおか氷柱つららのような口調で、兄に問いかかった。

「……何してる」

 虚無感の漂う言い方が、かえって彼の激しい怒りを感じさせた。ただならぬ雰囲気の弟を見て、ロベルトはガラにもなく狼狽ろうばいしたが、性懲りなく反論する。

「……っ!! お前と同じような事しただけだろうが。自分だけ格好つけるな……!!」

 苦痛に歪んだ顔で罵ったが、直ぐ様、ジェラルドは掴んだ拳に、ぎりっ、と更に力を入れた。握った指が青白くなり戦慄わなないている。怒りと脅しを込めた、重厚ある口調で言い放った。

「離れろ。二度と近づくな。俺の事は何と言ってもいい。が、この女を侮辱するのだけは、止めろ……!!」
「……っ!!」

 ロベルトは悔しげに言い返そうとした。が、今すぐ焼き切られるのではと思われる鋭い光を放つ眼差しと、手首の激痛に圧倒された。忌々しげに舌打ちし、力任せに腕を振り払う。

「そんなに、この女がのか。まさか、お前がほだされるなんてねぇ。物好きだな!!」

 そう吐き捨て、勢いよく広間の扉を開け、中に入って行った。彼の突然な登場に、何事かと客人達がざわめく。

 人目を気にしたのか、ジェラルドはノースリーブにロンググローブ姿のアンジュの肩に、自分が着ていた濃いネイビーの燕尾服を掛け、彼女の手を取り、静かに促した。

「おいで」

 先程までの怒りに燃えた、恐ろしい彼の姿は消えている。も、少し落ち着いた新緑のような色に変化していた。
 一瞬、アンジュは躊躇したが、抵抗はしなかった。さっき、ロベルトに腕を掴まれた時は、身震いする程、嫌で堪らなく怖かった。しかし、むしろ今は、繋がれた手から温かさと安らぎまで感じる。次第に高鳴っていく心臓の音が伝わってしまわないか不安に思いながら、彼に手を引かれ、小走りに駆け出した。
 壁に掛けられた幾つものランプの灯りが、流星のように横流れしていくのに比例して、不可思議な高揚と満たされていくような甘い苦しさが増していく。
 瞬間――見慣れた薄暗い廊下が、美しくキラキラと瞬く、星屑の集まった銀河に見えた気がした。


 ジェラルドに誘われるがまま付いて行くと、やがて一つの部屋に辿り着いた。彼は慣れた手つきで重々しい扉を開け、アンジュの手を握ったまま、中へ入って行く。しん、とした誰もいない空間は、どこか寂しげだった。
 中央の上質なカーペットの上に置かれた、黒々と艶めくグランドピアノが、厳かな重厚感を放っていた。色鮮やかなステンドグラスで型どられた聖母マリアや大天使ガブリエルが、ランプのオレンジ色のあかりしか無い室内を、どこか神聖な空間に作り上げている。
 ピアノの側まで来ると、ジェラルドは手をほどき、彼女の方に向き直る。燃え滾っていたから黄緑の炎は消え、いつものダークグリーンに戻っていた。

 そんな彼を、少し不安そうにアンジュは見上げた。対しジェラルドは、困惑を隠せない素振りで問う。

「……何故、言い返した?」
「え……?」
「あいつは、君の客だろ? 増して、ああいう人間だ。怒らせたら厄介だとか、思わなかったのか?」
「あ……」

 今頃気づいたらしく、狼狽うろたえて口ごもる彼女に、ふうっ……と静かにため息をついた。しかし、その眼差しは、今までにない位に穏やかで、柔らかい。

「ああいう時は、適当に流しておいたらいいし、まともに受け答えなくていい」
「でも……! あんな酷いこと……!!」
「言われ慣れてるから構わない。それに本当の事だ」

 瞬間、アンジュの表情が少し固くなった。そんな変化を、ジェラルドは見逃さなかった。

「どうした?」
「……なら、も本当なんですか?」
?」

 また心を見透かされた事の驚き、そして、この不安を抱く自身に戸惑いを感じながら、恐々と切り出す。

「女なら誰でもいいっていう…… 気にかけてくれたり、優しくしてくれたのも、そういう事が目的だったんですか……?」
「違う!!」

 出会ってから初めて、感情をあらわにして、声を荒げた彼に、アンジュは眼を目一杯丸くした。傾いた心が、真逆の方向に揺さぶられる。

「あ…… いや……」

 ジェラルドの色白の頬が、心なしか少し赤い。決まり悪そうに俯き、前髪を掌でかき上げている。初めて見るそんな彼の様子に、甘酸っぱい嬉しさでアンジュも高揚したが、自分の顔も熱くなっているのが分かった。目を合わせるのが恥ずかしくなり、慌てて視線を反らす。

 暫くの間、気まずい沈黙が続いていたが、やがて、ジェラルドの方が口を開いた。

「……この間は、悪かった」
「あ……」
「言い過ぎた」

 珍しく素直に話す彼に、アンジュは戸惑う。何と答えたらいいのか分からないでいた。が、なんとか言葉を絞り出して、正直な気持ちを伝えた。

「……信じて、もらえてなかったんだって……悲しかったです」

 すると、またきまり悪そうに傍らのピアノに視線を向け、ぽつり、と彼は応える。

「……信じてるよ」

 手元の鍵盤に触れ、ポーン、と軽く鳴らす。同時にアンジュの心にも、高らかな歓喜の音が響いた。

「良かった……」

 思わず、柔らかな微笑が零れる。その小さな花が綻ぶような表情を見て、そっ、と鍵盤をまた撫でた。そのいとおしげな仕草から、ふとアンジュは察する。

「ピアノ、好きなんですか?」

 驚いたジェラルドは、彼女を凝視した。深緑の瞳孔が見開く。

「……何故、そう思う?」
「今ので分かります。薔薇を見てる時と同じ顔だもの。嬉しそう」

 儚くも、屈託のない微笑みと言葉に、ジェラルドは観念した。

「……当たり」
「やっぱり」

 ふふっ、と喜ぶアンジュに対し、少し複雑な気持ちになり、ぼそっ、と小声で続ける。

「半分だけ……」
「え……?」
「いや……何でもない……」
「?」

 不思議そうに小首を傾げる彼女を他所に、今度は長めにゆっくりと、ジェラルドはピアノを鳴らした。どこか重みのある、ゆるやかで優しい旋律が奏でられ、室内に響く。

「……これと、薔薇だけだった。心を救ってくれたのは」
「…………」
「人……人間には、期待しなかった」

 彼の心の内が、次から次に明かされていく状況に、アンジュは戸惑う。

「本当は解ってる。あの女……母と公爵は、愛も情も無い結婚……政略結婚だった。寂しさから色んな男にすがるんだろう。俺の存在はずっと見て見ぬふりだった。母にとって、俺は自分の負の象徴だ。公爵も不貞の子だって薄々気づいてるから、愛せなくても仕方ない」

 一呼吸おき、ジェラルドはアンジュの方へ向き直った。

「……両親がいて愛されないのと、両親がいなくて愛されないのとでは、どっちが辛いんだろうな」
「ジェラルドさん……」
「君も、色々あったんだな」

 少し申し訳なさそうに、アンジュの方を見つめる。

「悪い。さっきの……聞こえた」

 いえ、と左右に軽く首を振る。

「……私も、音楽……歌だけが支えでした。自分で自分を、ずっと励ましてた……」
「俺もだ。これでも名高い教官を家庭教師につけて学んだ」
「そうなんですか!?」


 遠くからは、楽団の演奏がまだ聴こえて来る。瞬間、アンジュの脳に名案が浮かんだ。

「あの、ピアノ……弾いてくれませんか!? 貴方の演奏で歌ってみたい!!」

 宝物を見つけた子供のような彼女の顔に、ジェラルドは、一瞬、驚いて沈黙した後、ふはっ……と吹き出した。いつもの歪んだものではない。とても目映まばゆく……素敵な笑顔だった。
 何故、笑われたのかアンジュには解らなかったが、思わず見惚みほれていた。必死に笑い声を抑えながら、彼は答える。

「本当、面白いな……君は。突拍子もない」
「駄目……ですか?」

 残念と言わんばかりに、しゅん、となる。

「……良いけど、一回だけ。普段は人前で弾かない」
「ええ……」
「その代わり、君が好きな曲にするから」
「……? 教えました?」

 すると、ジェラルドは鍵盤の前に立ち、ある曲を弾き始めた。アンジュの耳から胸にかけて、電流のような衝撃が走る。このメロディは――

「……!!」
「君なら、この曲に合わせて歌えるだろう?」
「ジェラルドさん……!!」
「作詞、アンジェリーク。作曲、マドラス・ワーグナー。題名『ポピーの涙』。今日が初披露。客はいないけどね」
「…………!!」

 言いようのない歓喜でに涙を滲ませたアンジュを流し見た後、そのままピアノの椅子に座ったジェラルドは、彼女が何より歌いたかった曲を、もう一度始めから、丁寧に弾き始めた。

『炎の中で 散る花よ
 真っ赤な涙を 頭上に舞わせ
 最期の瞬間ときに 君は何を想う?

 さようなら 育った故郷ふるさと
 さようなら 愛した人
 さようなら 愛してくれた人

 遺されたはずの亡骸なきがらさえ
 涙と共に消えていった

 誰のために 君は泣く?
 誰のために 君はく?』

 彼の奏でる哀愁漂う切ないメロディに合わせ、アンジュは歌った。あの美しい庭園で見た満開のポピー畑、スコットさん、クリスの悲しげな様子、激戦地へ旅立ったフィリップのことを思い出す。
 これは、これから失われるであろう全ての命と、傷つけられる心への鎮魂歌レクイエムだ。遠くから聞こえて来る、勇ましい戦争讃歌に負けないかのように、儚くも慈しみ溢れる歌声が、部屋中に優しく満ちていく。
 誰もいない二人だけの演奏会で熱唱する中、部屋に置かれた女神の銅像や、ステンドグラスで型どられた天使達が見守っていた。――神が寄越した、客人のように。

Serenade ~ 小夜曲


 銀幕のエンドロールのように、伴奏の音色が名残惜しさを醸しながら消えてゆき、楽曲は終わった。まだ興奮が冷めないアンジュは、歌の世界の余韻と歓喜で、心が、全身が、かつてない程に打ち震えている。
 披露するのを反対され、参戦中だからと口にする事さえ禁止され、ずっと封印していたこの歌を盛大に歌えた喜び、そして何より、ジェラルドへの感謝で、心の中が溢れ返りそうだった。

「ジェラルドさん……ありがとうございます……!!」

 彼の方を向き、震える声で礼を述べ、嬉し涙を眼に混じながら、小さく拍手喝采した。音楽に触れて、こんなにも心が揺さぶられ、虹色の光が乱反射するような経験は、今までなかった。幾つもの情感が繊細に重なり合う、彼が奏でる旋律にも魅了されていたのだ。
 ふわっ……と小花が開花した瞬間のような、満面のあどけない笑みが生まれた。急いでジェラルドの傍に駆け寄り、彼の骨張った右手を、両手で取る。両の蒼碧マリンブルーの瞳に射していた、憂いが霞んでいく。

「貴方のピアノは、とても繊細で、綺麗で……温かいわ」
「…………」

 興奮して珍しく熱の冷めない彼女に対し、ジェラルドは静かに沈黙していた。我に返ったアンジュが様子を伺うと、何時いつになく思い詰めたような、真剣な面持ちで自分を見つめて来る。
 少しはしゃぎ過ぎたかと思い、慌てて握った手を放し、詫びた。

「ごめんなさい。調子に乗って……もう、頼みませんから」

 それでも、ジェラルドは無言のままだ。すっ、と通った鼻筋と秀麗な眉、僅かに揺らめくダークグリーンの妖艶なが、すぐ間近にある状況に、今更ながら、何故か急に緊張した。


「あの、そろそろ戻ります。皆が、探してるかもしれないので」

 動揺を悟られないよう彼から少し離れ、アンジュは急いで立ち去ろうとした。が、腰からのドレープが、ゆるい螺旋らせん状になっているロングスカートの裾につまづき、よろめいた。
 焦ったジェラルドに後ろから腕を掴まれ、支えられた。安堵したのと同時に、そのまま、引き寄せられるように、両腕で包み込まれる。
 何が起こったのか、一瞬、彼女には判らなかった。身体に回された二つの固い腕と、背中に感じるほのかな温もり、羽織ったままの燕尾服と絹のシャツの衣擦れの音。そして、少し癖のあるブルネットの髪が、自身の首元に触れていることで、今の状況をようやく理解した。
 眼球を動かすと、すぐ隣に、彼の横顔がある。全身をめぐる、自分のものではない慣れない感触。ウッディ調の香水トワレのようなこうが混じった、の匂いが、鼻腔をくすぐった。
 強烈な驚きと未知の高揚、恥じらいで、頬が一気に熱くなるのが判った。どくん、と鳴る心音。身体中の血が、一気に逆流する。

「……あ、あ……の」
「……本当に、何も……解ってないんだな」

 上擦りながらも溢した、アンジュの問うような声を、喉奥から絞り出すような重く掠れた声で、ジェラルドは遮る。

「……さっき、どんな顔をしていたか知らない。が、ピアノを見て、考えていたのは……君の、事だ」

 チェロの弦が、途切れ途切れに奏でられるような、次第に心を惹き寄せる音色。アンジュの胸奥の何かが、ぎゅうっ、と甘く、心臓を強く締め付ける。

「初めは、何かに憑かれたと思った。……気づいたら、探している。会いたくなる。構いたくなる。助けたくなる…… どうかして、しまった……」

 珍しく素直に、熱っぽく独り言のように語る彼の言葉を、一字一句聞き逃さないよう、全神経を耳に集中させる。吐息混じりに細々と響く、湿度を帯びたつややかな旋律に、くらり、と酔った。

「アンジュ」

 後ろから抱きしめていた腕の力を、ジェラルドは、ぐっ、と更に強めた。チェロの音色が、更に深く、重く響くようなつやのある声で、初めて自分の名を呼ばれ、身体の芯が揺れる。

「は、い……」

 雛鳥が鳴くような、か細く掠れた声で、なんとか応えた。

「……すき、だ」

 ざわり、と全身が粟立ち、芯から震えた。彼の渾身のメッセージが、初めて耳にする魔法の呪文のように、アンジュの耳から脳内に響き渡る。自分に向けられた慣れない台詞の連続に、『これは甘美な夢なのではないだろうか』と、意識が半ば乖離かいりしていた。
 反面、この類いの想いを含んだ言葉を乞いていたのか、じわじわ、と心に沁み入るに従い、マリンブルーの両の瞳が温かい水の膜に被われ、一筋の滴をつたい流す。気づいたジェラルドは、彼女の肩を掴み抱いて反転させ、向き合わせた。濡れた頬のしずくを長い指で、戸惑いながらも優しく拭った。そのまま掌を添え、もう片方の手の指先で、柔らかな蜜蝋色の髪をすくい撫でる。
 彼のそんな一連の仕草は、不器用で拙く、一輪挿しの花をでる、それだった。しかし、他人に撫でられた事の無いアンジュの身体は、びくっ、と反射的に硬直した。瞳孔を見開き、恐々とジェラルドを見上げ、どこか揺らぐ深緑の瞳を仰ぎ、引き込まれるように、魅入る。
 ようやく二人の視線は繋がったが、彼女の脳は未だに現状を把握出来ないでいる。

 ――こういう色の宝石を、前に本で見たわ……

 という、唐突な感想がよぎっていた。一方、彼女が身体を強張らせたので、ジェラルドは手の動きを止めた。後頭部を優しく撫で上げ、躊躇いながら包み込むように前屈み、あらわになっている白い額に、そっ、と自身の唇をあてた。

「ふぁっ……」

 思わず目をつむり、アンジュは小さく驚きの声を漏らす。しかし、逃げ出したり抵抗したいという気は起きなかった。生まれて初めて感じる柔らかな感触が、触れられた箇所から、じわり、と染み渡る。肩をすくめてすがるように、彼の二の腕を掴んでいた。
 そんな様子を伺いながらも、自身の奥底から湧き出て止まない、初めて覚える熱い衝動にジェラルドは抗えないでいた。惹き寄せられるように彼女の柔らかな頬や鼻先にも、再びでるように、順番にゆっくりと口付ける。
 次第に固まっていたアンジュの身体は、強張った心と同時に、少しずつ融けていった。閉じていたまぶたを開き、自分に優しいキスを贈り続ける彼を、熟れたピーチスキンの顔で、空高く仰ぐように見上げる。
 ジェラルドも少しばかり頬を染め、『どうしたら良いかわからない』と言わんばかりの、困惑が交じる悩ましい表情で、真下の彼女を見つめた。

 いつもの冷淡な眼差しは消えていて、切なさを帯びた少しの情欲と、穏やかな慈しみに萌えた若葉の色が交えている。そんな彼を凝視しているうち、アンジュの眼差しも、高鳴る心がとろけていくのに比例し、熱っぽい潤いを含んだ、糖蜜のような甘い繋ぎに変わった。
 全ての空間が無音になり、どこか艶のある神聖な静寂に包まれた。見つめ合う深緑ダークグリーン蒼碧マリンブルーの対の距離が、微かな瞬きに合わせ、少しずつ縮まる。
 ずっと、彼らをへだたらせていた、迷いも、戸惑いも、消え失せた。高低差のある二つの鼻先が触れ合った瞬間、そうする事が必然的だったかのように、どちらからともなく、互いのに、二色の睫毛まつげの幕が降りる。刹那、僅かに揺れながら開閉する唇が、そっ、と重なり合った。

 ――互いの唇の感触と温もりを、何度か確かめ合うよう軽くついばむだけの、つたなく、淡い、口付け……

 あまりにたかぶる幸福感に包まれ、共に酔いしれていく。
『これは自分の身に起こった事ではなく、恋物語の戯曲か何かを観賞して、感情移入している最中なのではないか……』
 という、他人事のような思いでいたが、口元に感じる自分のものではない柔らかな温もり、熱い吐息、惹かれて止まない香りが、錯乱した思考に鮮烈に冴え、リアルに訴えかける。


「……っふ、う……」

 初めての慣れないキスで、呼吸を忘れていたアンジュの少し苦しそうな声で、ジェラルドは我に返り、慌てて顔と身体を離した。けほっ、と軽く咳き込む音がする。

「大丈夫か……?」

 途端に罪悪感がジェラルドを襲う。彼女が受け入れてくれた、抵抗されないのをいい事に、性急に想いをぶつけてしまったと焦り、猛省した。

「……は、い。大丈夫です。初めてで……」

 こくん、とピーチスキンのままの顔で頷く。暫しの沈黙の間、ジェラルドは、そんな彼女を可愛らしく思いながら、言い様のない至福の想いで眺めていた。

「……そうか。いきなり……悪かった」
「いえ……! その、嫌じゃ、なかった……ですから……」

 誤解して欲しくないと思ったアンジュは、慌ててジェラルドを見上げた。少しばつの悪そうな表情を浮かべている彼と、また視線がぶつかる。
 薄化粧ではあったが、付けていたルージュの色が移り、微かに同じ薔薇色に染まった彼の唇が目に入り、途端、強烈なこそばゆい羞恥で俯いた。

「……あの、口紅が、少し……付きました……」
「!? あ、ああ……」

 同じく赤らんだ顔で慌てて口元を拭いながら、そんな彼女をいとおしく見ていたが、部屋の外が騒がしくなってきた事に気づいた。いつの間にか晩餐会パーティーは終わっていたようだ。


「……戻った方がいいな」
「あ……」

 慌てたアンジュは、羽織っていた燕尾服を脱ぎ、彼に返そうとする。その時、服の胸元に煌めく純金製のバッジに気づいた。グラッドストーン公爵家の紋章を型どった物だ。ジェラルドが公爵家の人間だという事実を、改めて実感した。一気に頭が冷え、先程までの幸福感が、すうっ……と醒めてゆく。

「……ジェラルドさん」

 改まった素振りで丁寧に彼の名前を呼び、向き合う。

「もう、こんな風に二人きりで会わない方が良いと思います」

 突然の彼女の変化に驚愕し、深緑の瞳孔を見開いた彼に反し、アンジュのマリンブルーの瞳には憂いが戻っていた。……いや、幸福な甘い夢から覚めた直後の、失望、虚無、哀愁という表現の方が相応しいだろう。

「……アンジュ?」
「私は、孤児です。身分や肩書きどころか、姓も財産もありません。恩はありますが、楽団に買われたも同然の身です。そして、どんな事情があっても、貴方は公爵家の令息様です」

 アンジュは、フィリップとの事を思い出していた。自分の出自のせいで、彼には辛い思いをさせてしまった。大切な人の負担になるのは、絶対に嫌だった。次第に、喉奥が重い塊で詰まっていく。泣きそうになるのを、必死に堪えた。

「私達の事、噂されてます。以前と同じ……依頼主様のご令息と雇われ人の関係で、いましょう」

 他人行儀な態度で、自分と距離を置こうとする彼女に、強烈な焦燥、渇望と同時に激しい自責を、ジェラルドは感じた。

「アンジュ!! 俺は……!!」
「貴方は、私と住む世界が違う……違い過ぎる方です」

 いつか誰かに言われた台詞セリフが、改めて、アンジュの傷口にきつく沁みた。いつになく沈痛な面持ちで、そんな身も蓋もない常套句を吐く彼女に、ジェラルドも返す言葉が見つからず、ぐっ、と詰まり、喉奥に押しやる。

「貴方には、何度も救われました。とても感謝しています。今日の事も……本当に嬉しかった。今のままで十分です。ありがとうございました」

 本心だが、本心では無い。本当は彼と、このまま…… 心を裂かれるような苦しみに耐え、アンジュは口元に微笑を作った。

「……貴方の幸せを、祈っています」

 丁寧にお辞儀をして、アンジュは足早に扉に向かい、飛び出すように部屋を後にする。
 残されたジェラルドは、茫然自失状態だった。脱け殻のように愕然とした面持ちで、彼女が出て行った扉を、ずっと見つめている。ようやく見つけた大切な存在もの。こんなにも呆気なく、自分の手からすり抜けてしまうものなのか……?


 広間の扉から出て来て、ぞろぞろ帰路についていく客人達に紛れて会場に戻って来たアンジュを、クリスは見つけた。急いで駆け寄り、心配そうに声をかける。

「アンジュ! どこにいたの? 公演は終わったけど、何だか変な噂されてるし……」

 事情を尋ねようとした彼女は絶句し、言葉を止めた。生気の無い、悲痛な面持ちのアンジュのから、静かに涙が溢れていたからだ。

「……クリスさん。何かを得る為には、何かを犠牲にしないと……いけないんですよね?」

 いつか彼女から聞いた、厳しくも温かい激励の言葉だ。

「えっ……?」
「自分じゃない……大切なものの為に、自分の何かを……諦める事も、あるんでしょうか……?」

 掠れた声で、淡々と問いかけるアンジュの姿は、今にも倒れてしまいそうな位に、弱々しかった。しかし、その瞳にいつもの憂いは消えている。代わりに、揺らめく鮮烈な光が熱く、宿っていた。

↓次話


 #創作大賞2023 

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