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戦火のアンジェリーク(8) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』の第二幕部分(R15未満)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

2.London ~ the UK

名も無き戦い


 晩餐会から一週間程が経った午後。ジェラルドは、日課でもある、自宅の庭園を訪れていた。刺すように凍てついた風が吹き抜ける今の時期、あの美しい花達の姿はほとんど無い。それでも、彼は、子供の頃から真冬にも来ていたのだ。
 発芽や開花はしていなくとも、花は土の中で確かに生きている。そんな彼らを世話する庭師にとって、季節は関係ない。多少、仕事は減るが、土や苗木の状態を見る事は欠かさなかった。そんな庭師スコットに会いに、ジェラルドは通っていたのだ。寂れた風景は、沈んだ心をますます闇に追い込む。今日は、特に、彼と話がしたかった。

「……先日、公爵様から、鮮やかな色、華やかな色の花は、全て撤去するよう言われました。国からの要請だそうです。開花の時期ではありませんが、植えた木々は抜かねばなりません。ポピーは勿論……薔薇も、でしょうな」

 淡々と他人事のように、理不尽な事柄を語るスコットに、ジェラルドの胸が痛んだ。長年、手塩にかけて育て上げてきたものを、自らの手で無に還す。彼にとっては、身を切られるような所業のはずだ。
 残酷な仕打ちを受け入れるしかない彼の姿に、苦い既視感デジャヴに襲われた。皮肉にも自分で、自分の大切なものを壊さねばならない状況……
 大好きな歌で戦争を鼓舞したアンジュ。そして、名ばかりの肩書きで、そんな彼女を失う自分。ままならない世知辛い世界に、今まで以上の嫌悪と失望、無力感を覚えた。

「ア……彼女も、悲しみますね」

 ふ……と力なく微笑み、スコットは続ける。

「……仕方ありません。戦時中だからという名目だそうですが、恐らく空からの爆撃の標的になりやすいからでしょう。北欧も攻められたそうですし、我が国も空襲が始まるのは時間の問題でしょうな」

 過去に大戦を経験した彼の予想には、事の重大さと命の危機が迫っている現実が、ひしひし、と伝わってくる。


「ジェリー坊っちゃん」

 改まった声色で、スコットはジェラルドを呼んだ。

「……あのと、何かあったんですか?」
「え……?」
「長い付き合いですからね」

 何でもお見通し、と言わんばかりの彼に、『この人には敵わないな』と、ジェラルドは自嘲半分、妙な嬉しさに満たされた。持って来ていた大きめの茶封筒を、彼に手渡す。

「アンジュ……彼女が、例のソロデビューする日に歌うはずだった楽曲の楽譜です。歌詞が反戦歌ということで、披露は無くなりましたが」
「そうですか。あのが……」

 代わりに戦争讃歌を歌わされた事は言わず、敢えて伏せた。わざわざに知らせる必要も無いし、彼女も決して望んでいないだろう。
 封筒を受け取ったスコットは、ポピー畑の中で嬉しそうにしていた彼女の姿を思い出し、何とも言えない切ない思いに駆られた。

「ワーグナー団長を説き伏せて、譜面だけ貰いました。……初めて、公爵家令息の権力を使いましたよ」
「……坊っちゃん」

 複雑そうに苦笑するジェラルドを、スコットは驚きと共に、どこか嬉しそうに凝視した。

「歌詞は、さすがに流出させられないと言われたので、先日、彼女が密かに歌ったのを聞いて、覚えている限りですが書き移しました。どうか見てやって下さい」
「……今でも?」

 頷くジェラルドを確認し、中の譜面と共に書かれた歌詞を読んだ彼は、次第に熱くなる目頭を、思わず指で抑えた。ポピーをモチーフにしたという、戦場で失われた命への鎮魂歌レクイエム
 戦争を知らないはずの、あの成人し間もない娘は、自分の話を聞き、どんな思いでこれを書いて、歌う事を諦めたのだろうか。彼女の優しさといじらしさに、未だに疼く心の痛みが、幾分か和らいだ気がした。

「……坊っちゃんは、あのが大切なんですね」
「え……」

 楽譜から自分に視線を移した彼の言葉に、ジェラルドは面食らった。寒空の下で冷え切った頬が、一気に熱くなる。

「彼女とは、一度しか会っていませんが、誰かといてあんなに楽しそうな貴方は、初めて見ました。……いいですね」

 幼い頃からの自分を、ある意味両親よりずっと知っている彼の言葉に、今のジェラルドに否定する気は湧かなかった。先日、初めて深く触れ合い、その直後に見た彼女の精一杯の儚い笑み、健気な想いが脳裏に過る。

「……そうです。本当に……俺とは違います」

 思いがけず突然出逢った、惹かれて止まない存在ひと。だが、自分の手には届かない。いや、守れないのだ。

「……彼女といられるなら、公爵の身分など捨てても構わない。貴方は気づいておられるでしょうが、元々、俺にそんな肩書きは無かったんです」

 自嘲気味に、ふっ、と力なく笑う。

「とはいえ、その名ばかりの身分と財産に守られ生きてきたのも事実です。そんな何者でも無い自分が、こんな情勢下ときに、人一人支えて生きていけるのか、彼女にも全てを捨てさせてまで、一緒にいて良いのか……判らない……」

 貴族にとって、醜聞スキャンダルは命取りにも成りかねない。家名も社交界も捨てた自分と生きるということは、アンジュにも楽団を辞めてもらい、噂も外聞も届かない、ロンドンから遠く離れた土地で、二人で暮らすということだ。
 今の過酷な状況は、彼女の精神衛生上、決して良いとは言えない。だが、折角入った歌を磨く場所、努力を重ねた名声まで、自分の為に捨てさせて良いのだろうか……

「……本気で好いていらっしゃるのですね」

 感慨深そうに呟くスコットの言葉が、どこか他人事のように耳に入り、茫然とした面持ちで、ジェラルドは彼を凝視した。寂しさ故にとはいえ無差別な色事と情事、自身の装飾と美容にふけり、息子二人の世話は乳母と使用人に任せ、目もくれない母。そんな妻に必要以上には接せず、世間体を気にして離縁しない父。
 それでも『愛してる』と、互いに顔を合わせては、当たり前のように告げている二人。虚栄心と歪なプライドの塊という面は、皮肉にも気が合ったのだろうか。物心がついて大人になり、やがて、そんな両親に違和感を感じ始めていたジェラルドには、それが日常的な挨拶とも社交辞令とも違う、何かの契約の儀式のようにも見えていた。

 それ故か、ずっと、男女の恋や真実の愛やらという類いの情をあざけり、ずっと見下していた。そんな自身に芽生えたばかりのこの想いが、それに当て嵌まるのか分からないのだ。

わしは、前の大戦で息子夫婦を亡くしました。……孫も一緒でした。生きていたら、坊っちゃんと同じ年頃だったでしょう」

 今はその面影の無いポピー畑に、哀しく遠い眼差しを向け、突如、スコットは語り始めた。初めて聞く彼の過去に、ジェラルドは戸惑い、驚く。

「その後間もなく、病気がちだった妻も心労が祟って亡くなり、自分だけ何故生きているのだろう、と無気力になり、惰性的に花の世話をするだけの日々でした。……そんな中、儂が育てた薔薇を毎日のように見に来て下さる幼い貴方が、段々、本当の孫のように可愛く思えて……救われたのです」

 思いがけない彼の言葉に、ジェラルドは瞳孔を見開く。そんな事は全然知らなかった。

「反面、御家族に冷遇されているのが気の毒でならなかった。そんな貴方が、人を……に惹かれ、恋をされた」

 しわのある目元を細め、嬉しそうに微笑む彼に、途端に照れ臭くなり、ジェラルドは目を伏せた。

「命の存続すら危ぶまれる時世です。人並みに生きるのさえ、確かではありません。奴らは……戦争は、全てを壊し、奪いにかかって来ます。勿論、我が国も防御はします。が、攻撃を受け、応戦すると決めたのです。この庭園も、明日にはどうなるかわからない。儂も、貴方も、あのも、です」

 ジェラルドは、はっ、と何かが醒めたように顔を上げ、スコットを凝視した。淡くも直向ひたむきに生きるアンジュの姿が魅せられるように、混沌としていた彼の脳裏に浮かぶ。

「たとえ明日この庭が無くなろうとも、今日、花達を育て、見守り、でる。この達の生き様が、誰かの記憶に残るように。それが、今の儂なりの……戦いです」

 彼の刹那的で清廉な想いに圧倒され、ジェラルドは言葉を失った。一度、全てを奪われ無くした人間の、多大な絶望と怒りから生まれたのであろう、狂気とも言える位に崇高で、強靭な意志と再生力。
 普段、温厚な彼から滲み出る覚悟の強さは、その穏やかな振る舞いに似つかわしくなく、並大抵のものではない。


「……覚えておられますか? 薔薇を見に来て下さるようになって暫く経った頃、とげで指を怪我された時、貴方は尋ねられました。『どうして、こんなに刺があるの?』と」
「はい。覚えています」

 ジェラルドにとって、印象深いやり取りだった為、朧気にだが記憶に残っていた。

『虫や小動物に食べられないよう、こうして自分を守っているのですよ』と丁寧に返したスコットに、物心ついた彼は言ったのだ――


『……かわいそうだね』
『え?』
『こんなにきれいなのに、誰にもなでてもらえない。……僕にも刺があるから、みんな近寄らないのかな』

 年端もいかない公爵令息が、何故か腫れ物扱いされている状態を、当時のスコットは漠然と不振に感じていた。グラッドストーン公爵から、息子に余計な事を吹き込まないよう忠告されていた彼は、少し考え、言った。

『……違いますよ。貴方の心が薔薇のように美しく、気高く、魅力的だから、刺の方が貴方自身を守っておられるのです』

 驚いたように、ぽかん、とした表情をする幼い少年に、スコットは続ける。

『坊っちゃんのお名前には、刺と似た意味があるのですよ。『やり』、そして『戦士』です。解りますか?』

 呆然としたまま、こくん、と素直に頷くジェラルドに、彼はさとした。

『いつか、貴方に大切な方が出来たら、今度は、その人を守ってあげて下さい』


 ――…………

 記憶が少しずつ甦ってくると共に、ジェラルドの脳裏に、幾つものまばゆい光が弾けては、咲いた。

「俺、は……」

 そんな彼の様子を確認したスコットは、一枚のメモ用紙を手渡した。そこには、ロンドンから西に遠く離れたウェールズ地方にある町と、スコットランドのとある地方の住所が書かれていた。

「親友と従兄弟が、其々それぞれ住んでいます。情勢が不穏になった今、困った時は頼って良い、と言ってもらっていました。貴方の事も知っております」
「スコットさん……!?」

 彼が自分に言わんとしていることを、ジェラルドは察し、言い様のない熱い激情が押し寄せ、胸が詰まった。

「大変厳しい道のりだと思います。育ちの違いや苦労故に、壁にぶつかる時もあるでしょう。ですが……」

「こんな残酷な世界だからこそ、折角出逢えた大切な方とを育み、命ある限り、精一杯生きて下さい」

「なら、貴方も一緒に……!!」
「……儂は、この庭園を離れることは出来ません。この達は、今や我が子同然ですので。大丈夫。なるべく、自分の身は自分で守りますよ」

 スコットの皺に囲まれた穏やかな瞳の奥に、全てを悟ったような、固く揺るぎない覚悟の色が見えた。いざという時、彼はこの庭園と共に、心中する気ではないだろうか。
 そう思った途端、全力で引き留めたい衝動に駆られた。が、そんなジェラルドの思い全てを見透かし、優しく諭すように包み込む、切なる眼差しが言葉を止めた。
 彼が、長い年月の中で背負ってきた経験の重みも痛みも、理解したと言うのはおこがましく思えた。ぎりっ、と奥歯を噛むと同時に、目の前が水の膜に揺れ、かすむ。
 本来なら、最もしてくれるはずの両親に、厄介者、存在しない者として扱われている事に気づいた時の絶望と、堕落感。そんなものは幻想、少なくとも、自分には縁の無い、危うい遊戯ゲームだと思った。
 だが、違った。そんな風に思っていた日々の中、すぐ近くで、異なる形のが、確かに存在していたのだ。

「どうか、お幸せに。――ジェラルド様」

 穏やかな笑顔と礼儀ある態度で、うやうやしく頭を下げたスコットに感極まったジェラルドは、涙で滲んだ眼をきつくつむる。いつの間にか、背丈も身幅も彼よりずっと大きくなっていた身体で、敬意あるハグを、力強く返した。

追復する心


 同じ頃。アンジュは風邪を引き、屋根裏の自室で寝込んでしまっていた。熱を出してすっかり憔悴し、喉も痛めている。
 心配したクリスが、稽古後、薬と差し入れを持って見舞いに訪れた。火の消えかけたストーブにも薪を追加してくれる。冷え切って寒々としていた部屋が、救われるように暖まっていく。

「クリスさ、ん……すみませ……」
「疲れが出たのね。急に環境も変わったし、色々大変だったもの。仕方ないわ」

 美声で紡がれる、温かみのある優しい言葉が弱った心に沁み、目頭が次第に熱くなる。彼女に伝染うつる事も懸念し、毛布で顔半分を隠した。

「……団長には、少し、叱られました。体調管理も……仕事の、うちだって。情けないです……私」

 弱々しく掠れた声で、自嘲気味に微笑むアンジュが、痛々しく映る。

「……水飴とジンジャーをお湯で溶かしたの。飲んで」

 クリスは複雑そうに微笑み、温かいコップを手渡した。かじかんだ指先の感覚が、じんわりと戻ってくる。

「本当は蜂蜜が良いんだけど、最近、物が不足していてね。高くなったの。ごめんなさいね」

 熱くとろけるような甘さの中に、時折、ピリッとした辛味が混じる、切ない味。今の自身の心境と、どこか重なる気がした。
 そんな感情全てを鎮め、押し込むように中身を飲み切ると、喉は少し楽になった。いつも気にかけて心配してくれるクリスに、今までの事を打ち明けよう……とアンジュは決意する。故郷で出会ったフィリップ、歌手を目指した経緯、ジェラルドとの出来事を、少しずつ、簡潔に話し始めた――


 ……全てを聞いたクリスは、案の定、心から驚いたと言わんばかり、と同時に感慨深い表情をした。

「……意外ね。あの人は、そんな風に他人と深く関わるようには見えなかったわ。非情で冷たいって、皆によく言われてたもの……」

 女の先輩として、続けて気の利いた助言をしてあげたいと思ったが、アンジュが抱えている悩みが、切実で、尚且つ疑似感デジャヴある内容だった為、茫然としてしまい言葉が出なかった。

「暫くは、何も考えないで休みなさい。彼の事も……」
「……いいんです」

 言い澱みながら労るクリスの言葉を、口元に僅かな笑みを作って、アンジュは遮った。

「私の為にも、これで良かったんです。楽団を止めて、公爵家……上流階級の方と関わるなんて無理ですし…… 有名な歌手になって、フィリップ……夢をくれた人にステージで聴いてもらう事が目標でしたけど…… 戦争讃歌しか歌えない今、そんなのは、嫌で……」

 胸奥が詰まって感極まり、アンジュは毛布に顔を埋めた。矛盾した想いと様々な考えが、彼女の頭の中で響いては反発し、大きな不協和音を鳴らす。

「……私は、歌姫プロ失格です。彼……ジェラルドさんの事ばかり考えてしまうんです。自分でも怖いぐらい……可笑おかしいですよね……」

 自嘲気味に呟き、振り絞るように言葉を紡ぐ。こんな状態になるのは初めてで、自身をコントロールできない。

「本当は、今すぐ会いたくて……仕方ないんです」

 切々とした熱を含んだ、情念ある台詞セリフを吐き、俯いてしまった彼女の姿にクリスは心打たれ、ほうっ……と感嘆の息を漏らした。

「……愛ね。素敵だわ」
「あ、い……?」

 耳慣れない、そして、自分には手の届かない、天にしか存在しないような言葉。

「そうよ。そんなに好きなのに、彼の立場を考えているんでしょう?」
「そんな。違…… 前みたいに負担になって、迷惑がられたくない…… 嫌われたくない、だけです……」

 フィリップとの一件で、アンジュは自分の負い目を痛い程、身に刻んでいた。昔、彼は『頼られるのは迷惑じゃない。嬉しい』と言ってくれたけど、結局、自分のせいで苦しめてしまった。ただ、好きで好きで、少しでも一緒にいたくて、彼の姿を必死に追っていたあの頃……
 『ポピーの涙』の歌詞で、『愛した』『愛してくれた』という言葉を使ったが、それは、孤児院に居た頃に見た、幸せそうな家族の様子やスコットさんの話を思い出しながら、憧れ混じりに書いたものだ。
 手にしたことの無い貴い宝のような、他人事のように認識していた『愛』が、自身に関わるモノとしては考えていなかった。

「……『愛』ってどんなものか……わからないんです。好かれたくても……迷惑がられたり、困らせてばかりだった…… 最近、にすらなったらいけないんじゃないか、と思ってて」

 思わず『そんなことないわ』と言いかけたが、クリスは言葉を飲み込んだ。彼女の記憶の扉が開き、苦いよぎったのだ。一息つき、代わりに違う考えを伝える。

「……今回は違うんじゃない? 今頃、彼も、貴女と同じような気持ちで……苦しんでると思うわ」

 はっ、と不意を突かれ、何かから少し醒めた表情で自分を見つめたアンジュに、クリスは語り始めた。

「……私の家は母子家庭でね。家計の為に、貴女位の年に働き始めて、楽団に入ったの。女手一つで育ててくれた母は、私の事も大切にしてくれたけど、無理が祟って、体を壊してしまったから」

 いつも明るく華やかな彼女から想像出来ない、重く深刻な話だった。少し懐かしそうな、それでいて複雑そうな面持ちで、クリスは続ける。

「遠い国から来て、独りで頑張ってる貴女が孤児だって聞いて、何だか昔の自分を見ているみたいで……放っておけなかったの」
「クリスさん……」

 『まさか、彼女が自分なんかと』という思いを込め、アンジュは憧れの人を呼ぶ。

「昔……楽団に入る前、歌手を夢見てバーで歌ってたんだけど…… 私もその時、好きな人が出来たの。その人は店の常連さんで、実家の大病院に勤める医者だった。彼も私を愛してくれて、結婚まで考えたけど、彼の両親に猛反対されたの。息子は優秀な後継ぎだから、そんな女とは結婚させられないって言われて」

 初めて知った、彼女が抱える事情。当時のクリスの気持ちが、今のアンジュには痛い程、わかる気がした。

「同じ頃、ワーグナー団長にスカウトされたの。結局、彼と別れて、楽団に入って歌姫プロになる道を選んだ。ずっと夢だったから、これで良かったと思ってるわ。けど……」

 艶やかな美声が少し憂い、重く影す。

「たまに思うの。あの時、全てを捨ててあの人と生きていたら、今頃どうなっていたんだろうって」

 当時の自身に思いをせているのか、そこにいない誰かを見つめるような、哀しく遠い眼差しになった。そんな姿さえも、アンジュには美しく映り、魅せられる。

「歌は、声と実力さえあれば、どこでも歌えるわ。場所や仕事は限られてしまうけど……」

 切なげな雰囲気を振り切るように改まり、クリスは、しっかりとした口調で、一言、一言をアンジュに語る。昔の自分の面影に重ね、説いているのだろうか。

「心の声を、よく聞いて。自分が、本当に一番望んでいるものは何か。何故、歌いたいのか。心の奥底まで、よく耳を傾けて。後悔だけはしないように」

 彼女の誠意に溢れた心のこもった助言が、今のアンジュには有難く、嬉しく思った。しかし、ずっと自分と向き合う事をしていなかった自身にとって、心の声というのは、あまりに頼りなく、か細く、不明確な存在だ。
 ただ、昔から、自身の奥底のが、乞うように叫んでいる事だけは、痛い程に、判っていた。


 一方、スコットの想いに背中を押されたジェラルドは、自室のデスクで万年筆をとり、戸籍上の父親に向け、一人で手紙を書いていた。
 出来るならアンジュと話をしてからにしたかったが、今の時世、いつ何が、自分の身に降り掛かるかわからない。これは、現在の自身の『決意表明』もしくは『嘆願書』だ。慣れ親しんだはずの自室の空間が、不気味な位の静寂に包まれる。

『拝啓 父上。もとい、グラッドストーン公爵様。

 急な申し出ではございますが、単刀直入に申し上げます。私を排嫡して下さい。
 私は、次男でございますし、家督や爵位の継承権はありませんので、昨今の時世から見るに、いつ徴兵されるかわからない身でございます。世間には、『息子は、国の為に志願兵になった。』とでも言えばよろしいでしょう。
 元々、私は我が家にとって足枷である身でした。いつ世間から『災いをもたらした悪魔』と呼ばれるかわからない存在がいなくなれば、貴殿方にも好都合でございましょう。
 思ってみれば、とうに成人している身です。いばらの道のりなのは、重々承知ですが、こちらに居ても、私にとっては地獄なのに変わりはございません。
 私の分の財産は、恐らく催促がある、ワーグナー楽団への寄付金、歌い手であるアンジェリークとの手切れ金にして下さい。悪しからず。

ジェラルド・グラッドストーン』

 彼らしい皮肉を盛大に込めた、別離の手紙だった。

「生まれて初めて親に書いた手紙が、これとはな……」

 口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。そんな運命を再び呪い、囚われるのは簡単だが、今の自分にはうんざりに思えた。今まで散々、恨み、嘆き、捨て鉢に生きてきたのだ。
 椅子に背もたれ、上を向き、刹那的な鋭い光を帯びたで、天井を見つめる。もし、我が人生に、過去を振り切る時が与えられるのなら、それはだろう。
 きっかけをくれたのが……彼女だ。あの娘のように、僅かでも……希望がある限り、恐れても必死に追いかけ、未来を見据えながら生きたい。もしも明日、この地に終焉が訪れるのなら、その時まで、彼女といたい。それが叶わぬなら、せめて彼女の為に生きたい。
 どうせ地獄の道を歩くなら、彼女がくれた光の種火を燃やし、ずっと纏っていたよろいもろとも、その陽のフレアで魔も邪も、全て払いのけ、我が身尽くしてでも進んでやる――


 その月の最後の晩餐会。年を越してから、公爵家は、パーティーの回数を必要最低限に減らしていた。時世的な自粛という名目だが、貴族が財産の倹約という選択をせざるを得ないくらい、情勢は不穏だったのだ。
 同時に、ジェラルドが楽団の者と顔を合わせられる回数も減り、この機会を逃してはならないと、必死にアンジュを探す。しかし、いつも大勢の中でもすぐに見つけられる、彼女の姿が見当たらない。不審に思い、楽団の誰かに尋ねようしたが、自分が噂されていることを思い出し、忌々しげに躊躇する。

「いきなり、失礼。ミス・コーラル殿」

 アンジュと何度か一緒にいるのを見かけたクリスに、周囲に配慮しながら、ジェラルドはうやうやしくお辞儀をしながら、礼儀正しく声をかけた。

「まあ…… 何でしょうか? マイ・ロード。(貴族の令息に対する下流層からの呼び掛け)ジェラルド・グラッドストーン様」

 先日、相談を受けたアンジュの意中の相手から、初めて声を掛けられ、クリスは内心動揺した。しかし、努め抑えにこやかに返す。は、こんな紳士的な振る舞いが出来る人間だったのか……

「アンジュ……アンジェリークは? 今夜は、出演は無いのでしょうか?」
「彼女は、単独の仕事に呼ばれていて、今夜は来ませんが……?」

 歌手として、名がそこそこ知れた彼女には、今や珍しい事ではなかったが、至極肌触りの悪い勘が、ジェラルドの脳裏に鋭く走る。

「そうですか。どんな用件で?」
「……? 別の貴族の方にご指名の依頼を頂いていて、その方に歌を披露するらしいです」

 冷静なまま礼儀ある態度を崩さずにいるが、どこか焦りを含んだ声色で問う彼を、クリスは不審に思った。

「一対一の、対面式なのですか?」
「そのようなケースもたまにありますが、大抵は歌い手が一人で招かれ、このような会場でショーのように披露します。あの、何か……?」

 異様な寒気を感じたジェラルドは、思わず会場をぐるりと見渡した。そう言えば、兄のロベルトも、珍しく今夜は来ていない。思えば、朝から妙な目付きで、自分を見て来る彼が気味悪く、不審だった。

「…………!!」

 を察した。頭の中で危険信号が鳴り響く。一気に血の気が引き、唇が乾き、冷や汗が吹き出した。

「場所は? わかりますか!?」

 激しい動揺をあらわにし、どこか怒りを含む意を隠さず、切迫して詰め寄る彼に、クリスは緊急事態が起こったことを察する。
 非情とまで言われていたこの人が、今、誰の為にここまで取り乱しているのか。それは、自身にとっても人物なのは、明らかだった。

↓次話


 #創作大賞2023 

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