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戦火のアンジェリーク(9) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』の第二幕部分(★R15表現あり)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

2.London ~ the UK

★似て非なる血


「やあ。久しぶりだな」

 単独依頼の仕事だと、小規模だが豪華なホテルのショールームに呼ばれ、依頼人と対峙したアンジュは驚愕した。ジェラルドの兄――ロベルトが、いつかも見たどこか裏のあるにこやかな笑みを浮かべ、自分を待っていたのだ。

「……何故、貴方が?」

 詰まる息を渇いた喉で飲み込み、真っ青な顔で尋ねる彼女を、ロベルトはにやつきながら、面白そうに眺めている。

「今日は、僕一人を楽しませて欲しくてね」
「…………?」
「わざわざ、部屋を貸し切りにしたんだ。仕事、してくれよ」

 彼の意図が読めないアンジュは、怪訝な表情を隠せない。純粋な観賞の為に自分を呼んだとは、さすがに思えなかった。

「……私の歌を、聴きたいんですか?」
「そうだね。でも……は、ここでじゃない。だ。来てくれるだろう?」

 明らかに不穏な企みを表している物言いと、にやり、といやらしく笑うシチュエーション。強烈な疑似感デジャヴよぎる。そんなアンジュの視界が、気持ちの悪い眩暈で、更にぐらついた。


 一方、邸宅を飛び出したジェラルドは、門番からの不審な視線も構わず、急いで馬車に乗り込み、ロベルトが行きそうな場所に向かった。アンジュの居場所はクリスも知らなかったので、心当たりのある建物を必死に推測する。
 『団長は知っているはず』『出番が終わり次第、彼に問いて自分も向かう』と彼女も協力してくれたが、一刻の猶予は無いと思った。恐らく、自分への当て付けか嫌がらせで、アンジュに何かしらの危害を加えるのは間違いない――
 ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、揺れる馬車の中で頭を抱える。とりあえず街に向かってはいるが、早く見つけなければ手遅れになると焦った。激しい罪悪感と兄への怒り、憎しみで破裂しそうな思考を、全神経を使って鎮めた。

 ――落ち着け。考えろ

 ロベルトは、由緒ある公爵家の跡取り息子である。いずれ、どこぞの名家の令嬢と婚約する身……外聞は気になるはずだ。歌い手の女を一人招いて連れ込んだ、なんて噂がおおっぴらに露呈するのは、いくら何でも避けたいに違いなかった。
 人目につかない、尚且なおかつ、家名を利用して、口止めが出来る場所は限られている。公爵家の行きつけの店かホテルを、手当たり次第に当たるしかなかった。しかし、従業員やオーナーが、すんなり口を割るはずも無いだろう。

 ――どうすれば……!!

 怒りと焦りで、胸奥が焼けるように疼く。き立てるように鳴り響く馬蹄の音が、今にも暴発しそうなジェラルドの思考を、更に崖っぷちに追い込んだ。
 ふと、アンジュの柔らかな微笑みが浮かぶ。ずっと、彼女を失う事、命が奪われてしまう事が怖かった。しかし、今、最も恐ろしいのは、を壊され、悪い方に変えられてしまう事だ……


「手っ取り早く言うけど、君は僕の『専属』になった。色んな意味でね」
「…………!?」

 一曲も歌わず、そのままロベルトに促され、ショールームを退出したアンジュは猜疑心を抱えながらも、ホテルの最上階にある、豪奢な装飾で溢れた一室に連れて来られた。それだけでも不安で堪らないのに、部屋に入るなり彼が口にした言葉は、アンジュにとって絶望的な展開だった。

「僕が好きな時に呼んで、僕の為に歌って、食事もする。あと……もてなしも」

 手にしたウイスキーを高価そうなグラスに注ぎながら、この男はとんでもない事実を次々に告げる。アンジュの全身に、ぞわっ、と気持ちの悪い戦慄が走った。
 ここと同じような部屋が幾つか隣接し、巨大なガラス張りの窓の外には、広いテラスが備え付けられている、宿泊用に造られたにしては贅沢過ぎる部屋だ。強いアルコールの臭いが漂うに比例し、脳内に危険信号が鳴り始める。目の前を取り巻く全てに対し、畏怖いふが占めた。

「そんな話!! 団長……団長は、ご存知なんですか!?」
「成約済み。金も払った。結構渋ったけど、今後のとの契約続行の有無をちらつかせたら、のんだよ。今、俺は親父と同等の立場だし、向こうも経営難だからねぇ。この世界には、こういう事もあるって知らなかった? お嬢ちゃん」

 ぐい、と勢いよく、ロベルトはウイスキーを口にした。公爵令息の権力で、楽団を脅迫した事実を何でもない事のように答える彼に驚愕し、唖然とする。
 まるで異星人とでも会話しているようだと思った。彼を取り巻く世界では、これは何でもない当たり前の事なのだろうか。段々、自分の感覚の方が常識外れ、異端だと迫られているような錯覚を感じ出す。
 いずれにしろ、この人にモラルや倫理は、まるで通じないと思ったアンジュは、素朴な疑問をぶつけた。

「……どうして、そこまで、私を?」
「そうだねぇ。確かに君はそんなに好みではないけど、他の女には無い、最高の切札カードを持ってるんだよ」

 口元に貼り付いたような微笑みを浮かべ、怒りに震えながら困惑するアンジュを尻目に、恐ろしい程の虚無感の漂う視線を向けた。

「『ジェラルド・グラッドストーンが、ご執心の女』」
「…………!!」

 既に滞留していた真っ黒な塊が、一気に沸騰し、ぐつぐつ、と煮え立つ。憎悪という名の激情が、生まれて初めてアンジュを襲った。

「アイツがどうしようと、今まではどうでも良かったんだけど、この間のはかなり腹に据えかねてね。大体、不貞の……悪魔のくせに妙にデキがいいのが、また癪に障る」

 突然、重く響く、ドスの効いた小声に変わり、独り言のように吐き捨てたロベルトは、完全に怨恨を剥き出しにしていた。

「一泡吹かせるだけじゃ、足りない。赦しを乞い、土下座するまでいたぶってやりたいんだなぁ」
「卑怯者!! 悪魔は……貴方よ!!」

 容赦無く続けられる、残酷極まりない発言に耐え切れず、とうとう、アンジュの口から罵倒する言葉が飛び出た。

「……今後はそんな口、利かない方がいいよ? 君次第で楽団の存続も危うくなるし、場合によってはアイツのも、世間にも公表するけど」
「…………!!」

 どこまでも卑劣な発言に、非難する言葉すら失う。この人は、本当にジェラルドと血が繋がっているのだろうか。背格好と瞳の色以外、彼の面影が全く感じられない。

 血縁の有無が、人間同士の良好度や信頼性を、必ずしも確定する訳ではない事を、アンジュはよく知っていた。まだ口もきけない頃、育児放棄の果てに見捨てたという両親。意識する度に無性に哀しくなり、自尊心を深くえぐる。
 育った孤児院の院長である叔母とだって、決して仲睦まじいとは言えなかった。むしろ、親類という事実が、逆に遠慮という壁を壊し、あだと化した。彼女にとっても不本意で迷惑な事だったろうが、養い主という切り札が、容赦ない仕打ちを増発させ、状況を悪化させているようにも思えた。
 戸籍という紙一枚の関係とも違う。扱い方を間違えば、知らぬ間に、一生付きまとうかせ、時には、自身の首をゆるやかに締め上げる凶器に変貌する。血の繋がりとは、そんな目に見えない鉄の鎖、又は真綿まわたの縄に成りかねない、諸刃もろはつるぎだ。
 信頼どころか情すら通わない、形だけの血縁者というのは、もしかしたら、最も人の心を歪ませ、憎悪を招いてしまうモノなのかもしれない……


 そんな事を考えているうちに、いつの間にか、アルコールと香水の混じった臭いを纏うロベルトが、アンジュの目の前に立ちふさがっていた。

「でも、嫌がる女性を無理矢理……というのは、僕の趣味じゃないんだ。まぁ、あんまり怒らせたら……わからないけどね」

 遠回しに恐ろしい脅迫をしながら、じりっ、と詰め寄る。並みならぬ恐怖と怒りで俯き、全く身動き出来なくなったアンジュの顔を、被うように覗き込んだ。
 薄暗がりの中、ランプの仄かな灯りに透ける、癖のある薄茶の短髪に、甘く柔和な造りの顔立ち。目元だけ見たら、むしろジェラルドよりずっと優しそうだ。だが、同じダークグリーンのの奥は笑っていない。光が無いのは同じだが、深緑しんりょくでもなかった。泥が潜むように漂い、濃灰に淀んでいる。
 自分には、もう逃げ場も突破口も無いのだという事実が、必死に抵抗していたアンジュの脳裏に、すきま風のように入り込み、ひやり、と乗っ取った。どうしようもない無力感、やるせなさ……諦めが、全身を侵食していく。
 こんな奴の言いなりになるなんて、絶対に嫌だった。しかし、自分が拒否したら、唯一の居場所である楽団、何よりも好いて慕う男に、危機が迫る。
 今からされることは、目の前の男でなく、もっと妖艶なの、冷徹で意地悪で……繊細で優しい、だと思えば、耐えられる……かも、しれ……ない……

「……本当に、ワーグナー楽団や、ジェラルドさんに何もしないと、お約束してくれるんですね? あと、この契約の件……彼には、内密にして下さい。もし、破ったら…… 私も、貴方との事を社交界にばらします。それくらいは、します」

 全てを諦め、悟ったような様子の中にある、どこか毅然とした物言い。そんなアンジュの態度と覚悟を帯びた眼差しに、ロベルトは少し不意を突かれ、面食らった。以前も感じたが、この娘は、心身共に多少脆弱なようだが、追い込まれた時、突如、肝を据えた何物かに変貌するようだ。

「……いいよ。了解。俺だって、そこまでして、アイツに何かしたい訳じゃない」
「わかりました……後は、貴方の言う通りにします。が、一つだけ条件……お願いがあります」
「条件なんて言える立場じゃないんだけどなぁ…… まあ、いいよ。何?」
「……口、付けだけは、出来ません。後は、ご自由に……とお約束します」

 あの二人だけの演奏会での出来事は、アンジュにとって、唯一の、貴い宝物である。

「は……? いいけど……? ああ、何かの思い出みたいな? ……って、あれ。まさか、君……経験、無い? え、とは……!?」

 そこまで言った瞬間、ふ……ふっ、ははは!! と、ロベルトは、盛大に吹き出した。

「これはいい……!! 大事で大事で仕方ない君に、僕が手をつけたと知った時、あの男、どんな顔するだろうねぇ……」

 小気味よいと言わんばかりに、くっ、くっ、と更に下卑た笑い声を上げる彼に、嫌悪感を益々募らせ、嘔吐しそうな胸焼けを今更ながら感じた。


 微かに震えるアンジュをベッドサイドに座らせ、ロベルトは手にしたサテン地のスカーフを折り、彼女の口に結わえつける。口枷くちかせのつもりらしかったが、自身全てを無にした当人は、そんな状況にもされるがままだ。

「あまり手荒い事はしたくないけど、大声を出されるのも困るからね。君の希望も叶うし、いいだろ?」

 そう言うなり、にやり、と笑みを浮かべ、レースカーテンに覆われた、柔らかなマットレスに押し倒した。激しい嫌悪で思わず目を反らしたアンジュの顔を、愉快そうに覗き込む。

「……へぇ。よく見たら、結構悪くないね」

 まじまじと、ロベルトは値踏みするように、横たえた身体を眺めた。透き通る白い肌に、蜜蝋みつろう色のゆるやかな巻き髪。華奢な胴体には小ぶりではあるが丸みを持っているのが、シフォン素材のフォーマルドレスの上からでもわかった。スリット入りのスカートから覗く足は、すらり、と綺麗に伸びている。
 相変わらず、小柄で痩せ気味ではあるが、長い年月が彼女の身体つきを、大人レディにしていたのだ。皮肉にも、こんな時……こんな男に、そんな言葉を言われた事が、アンジュは哀しくて堪らなかった。絹のシーツを、ぎゅっ、と片手で握りしめる。

 ――ああ……やっぱり、こうなるんだ……
 ――頑張ってみたけど、結局、誰かの言いなりになるしかなくて、何もできない。いつも、いつも、大切な人を、巻き込んで……
 ――何も無い。こんな、自分。もう、どうにでも……なれば……いい……


 暫し経ち、コン……コン……と控えめなノック音が、吐息と衣擦れの音だけがする、静まった室内に響いた。

「お客様。お休み中のところ、大変申し訳ございません」

 ホテルマンらしき年配の男の、若干怯えの混じる声がした。

★カナリアは何故鳴くか


 予想外の邪魔が入り、忌々しそうに舌打ちしたロベルトは、のそり、と身体を起こした。ベッドから離れ、気だるげにドアの近くへ向かう。

「……何だ。誰も来るなと言ったはずだろう」

 苛立ちと少しの焦りを含みながら、扉の向こうの人物を脅すように、凄んだ。

「お父上の公爵様から、御電話が参りました。至急、連絡を取りたいそうです」

 変わらず、落ち着きの中に震えを混じる呼び主に向かい、ロベルトは、面倒そうにため息を吐く。

「……仕方ないな。今、行く」

 恐らく、今夜の晩餐会の主催者である父親には、居場所を伝えていたのだろう。公爵の名前を出された途端、ロベルトは狼狽え、ドアロックを解除し、ノブに手をかけた。
 瞬間。バターン!! と勢いよく扉が開き、ホテルマンの男を後ろから押し退けるように、別の黒い影が室内に飛び込んで来た。ブルネットの髪を振り乱し、全身から殺気を放つ青年。荒々しく肩を揺らしながら呼吸している、ジェラルドだった。まだ三月という初春に入ったばかりの、冷え込む深夜にも拘らず、額に汗を滲ませ、コート無しの乱雑な出で立ちで、威嚇するように睨み付けている。
 その姿を見た信じられない、と言った表情のロベルトを余所に、ぐるり、とランプの灯りしか無い、薄暗い室内を見回した彼の思考は、絶望的な闇に突き落とされた。
 口元を布地のような物で縛られ、はだけた胸元をシーツで隠し、着崩れた胸当てとシュミーズ一枚でベッドから起き上がったアンジュが、視界に飛び込んできたのだ。幻でも見たような呆然とした面持ちで、暗い陰を落とした虚ろな瞳を、こちらに向けている。ずっと恐れていた、決して起こって欲しくなかった事態にあたる、地獄の光景だった。

「…………!!」

 ジェラルドの脳内で、バチン、と火花が凄まじく鳴り散った。一瞬、激しい眩暈が襲ったが、カッ、とペリドットの瞳孔が開き、ぎりぎりっ、と奥歯を噛みしめた。爪が食い込むほどの力が、右手に入る。
 刹那、錯乱状態のロベルトが突風のように立ちふさがってきたが、その握り拳で彼の頬を全力で殴り飛ばした。ミシッ、という骨がきしむ音と共に、彼の身体は勢いよく跳ね飛び、ガタガタ、ガターン!!、という轟音と共に、床に転がる。

「……っ!? おっ前、何、でここにっ……!?」

 口元に滲んだ血を拭いながら、ロベルトが、驚愕と怒りの混ざった声色で、狂ったように叫ぶ。
 シャープな眉が更に吊り上がり、歯を剥き出しにした、狼のように獰猛どうもうさまに変貌した、弟に襲いかかる。胸ぐらを掴み、殴り返そうと拳を振り上げた。
 そんな兄に対し、ジェラルドはいつかと同じく、めらめら燃える黄緑の眼光を、アイスピックのごとく彼に向かって突き刺す。近くに立て掛けてあった、アンジュが持参していた女性用の傘を素早く掴み取り、殴られる寸前で打ち止めた。
 その流れで、ロベルトの胴体に棒術のように突きを入れ、仕上げに長い右脚で急所を蹴り上げる。貴族の人間が、暴漢に襲われた時の為にたしなんでいる、護身術を応用したのだった。


 床に転がったまま、微かなうめき声を漏らし、動かない兄を射るように一瞥いちべつし、アンジュの元へ向かって、身体をひるがえす。
 血の滲む傷ついた右手で、衣装掛けからカフェオレ色の女性用コートを素早く引き掴み、自分の黒いコートと、ベッドの側に落ちていたローズピンクのフォーマルドレスを左手で拾い上げた。そんな自分の様子を、壊れたマリオネットのように見つめる彼女を見やった。
 二人きりの演奏会……初めて口付けを交わした夜以来の再会。ハアッ、ハアッ……と呼吸を荒げながら、ゆらり、と近づき、昂る感情をなるべく鎮め、問いかける。

「……立てるか? 怪我は……?」

 恐怖と驚きで麻痺したアンジュの心に、痛い位に懐かしい、静かな低音の重い旋律が、切に響く。今、一番聞きたくて、聞きたくない音色。
 信じられない、信じたくない思いで、自分を見つめてくる漆黒の長い影を仰いだ。夜更けの暗がりの中、外の灯りの逆光で表情はよく見えない。黒々とした影が放つ、荒い呼吸音と周りを斬りつけるような殺気。汗混じりの微かなウッディ調の香りに、二種のペリドットの鮮烈な瞬き……
 初めて会った夜。闇夜に光る、妖艶な悪魔の眼差しのようだと感じたの色が、今のアンジュには、切ない位に……眩し過ぎた。尊い陽の光に透ける、新緑の若葉のように映ったのだ。

 ――どうして、こんなに、必死で、一生懸命になってくれるんだろう……

 どこか他人事のように、ぼんやりしたアンジュの青白く浮かぶ首筋や胸元に、薄紅の小さな痣のようなものが、乱れた髪やシーツの隙間から、幾つか隠れ見える。それらが、ぐさぐさ、とジェラルドの心に飛び刺さり、激痛と共に、眩暈が再び彼を襲った。
 今にも狂う位の怒りと罪悪感で打ちのめされ、ペリドットとダークグリーンに代わる代わる煌めく。そんな彼の姿が、アンジュにはひどく痛々しく、泣き出しそうに見えた。鋭くも儚い光に吸い寄せられるように、震えながらも躊躇いがちに、細い片腕を差し出す。
 その掌を握り、手にした女性用コートで、ジェラルドは微かにびくつくアンジュの身体を包む。不安そうに茫然と見つめてくる、宵の海の閃光ひかりを注ぐように、しっかりとした口調で、言った。

「逃げるぞ」

 何も考えられなくなっていたアンジュには、その一言と若葉色の光が、天からの救いのように思えた。首部こうべを上下に不器用に動かし、頷く。しかし、ずっと無抵抗のままだった身体には、力が全然入らない。立ち上がろうとしたが、ふらり、とよろめいた。
 そんな様子を見たジェラルドは、一瞬、つらそうに顔を歪めたが、コートごとくるむように、彼女の身体を両腕で抱き上げた。懐かしい顔が互いの間近に迫る。

 ――、だわ

 ずっと動かなかったアンジュの心の泉が、ようやく、二つの宵闇の海を波打たせ……動かした。汗で濡れた絹のワイシャツが貼り付く、彼の固い胸元に、そっ……と、額を預ける。
 そんな彼女と、衣類や傘をしっかりと抱きかかえ、未だ困惑しているホテルマンを他所よそにし、ジェラルドはその場から走り去った。


 一方。公爵家の邸宅では、自分の出番を終えたクリスが、客間に待機している団長の元に走っていた。珍しく血相を変えた彼女の様子に、アンジュの件だと彼が予測するのは容易たやすかった。
 今夜の彼女への依頼内容について問い詰め、勘づいたジェラルドが助けに向かった経緯を話すと、公爵令息との契約の話まで、全てを白状した恩師に、クリスは愕然とした。

「……も、貴方と当時の先輩方は、助けて下さいませんでした。また同じ事を繰り返すのですか?」

 昔、まだ駆け出しの新人の頃に味わった、苦く忌まわしい体験を思い出しながら、怒りを努め抑え、続けて問いただす。

「仕方ないだろう。この大不況に、あの名高い公爵家に退かれたら、楽団自体やっていけなくなる。……君だって、危うくなるのだぞ」
「だから彼女を犠牲に? ただでさえ追い込まれているのに? アンジェリークの歌の評判は、あのの気質や精神状態が左右しているという事は、貴方も重々、ご存知のはずでしょう?」

 必死に訴えるクリスに、団長は哀しくも冷ややかな視線を向けた。この手の苦情や詰問には慣れているのか、無知な子供に愚かだと言い聞かせるように、淡々と続ける。

「生易しい事を言っていたら、経営なんてやっていけない。仕事……ビジネスとは、どの企業も会社も、基本的にそういうものだろう? 増してこの類いの業界は……歌えなくなったら、その時は切り捨てるしかあるまい。やむを得ず、というものだ」

 クリスの悲しげな軽蔑の眼差しに気づいた彼は、ふう、と軽くため息をついた。


 誰が決めたのか。何時いつから始まったのか。何がそうさせているのか。長い歴史の中で、遥か昔から世を占める、有無を言わさぬ印籠か、十字架のようなことわり。そんな弱肉強食世界を称す常套句を、組織のリーダーは呟く。
 強さとは、弱さとは、一体何なのだろう。生きるかて……富は、そのように残虐で狡猾な手段でしか得られない物なのか。獰猛と言われる肉食動物でさえ、共食いはしない。異種族の血肉を得た後は、当たり前かのように自ら地に還り、やがて別の命の肥に成る。
 引き換え、人間ヒトという生物の中には、他所の土地や財産を根こそぎ奪い、乗っ取った挙げ句、地球という命の土台そのものを破壊したがる者達がいる。現に、そんな殺伐とした残酷な時代の渦中に、自分達は生きているのだ。
 生命体を豊かに循環させ、虐げられ飢える者がいなくなる為に、人間ヒトの知恵というものは使うべきではないのか。食物連鎖の下層にいる生物を見下す一方、便利なもの、美しいモノは、欲望のままむさぼる。己の空洞を埋める為にすがり付き、我が物にしようと血眼になる。
 散々食い尽くし飽きれば、代わりとなる次の獲物ターゲットを探す…… それは、どの階層もさして変わらない。


 一見、華やかなショービジネスという世界で生きる中、そんな現状を山程見てきたクリスには、痛い程、身に沁みていた。

「仰る事は、よく……解ります。その事実は承知で、貴方が拾って下さるまで、私も仕事をしてきましたから」

 今までの自分。目の前の恩師。互いに手段は選んでいられなかった。夢と野心の利害一致故だが、世知辛い濁世を生き抜くためでもあった。だが……

「目先の利益や保身にばかり囚われ、貴重な人材を利己的に使い捨てるやり方ばかりしていると、そんなリーダーには誰も付いて来なくなります。いつか敵に足元をすくわれ……組織自体が、破綻するのではないですか?」

 糧の底が尽くまで、流れ行くまま続くであろう、終わりの無い不毛な輪廻。そんな事ばかりでしか満たされない生き様は、あまりに浅ましく、哀しく……滑稽だ。
 生産の源や活力だという名文でまかり通ってきた行いが、最終的に非生産的な結果に成り代わっている。そんな愚かな実態に気づき、改善策を事業にして心血を注ぐ者達だって存在することを、名声を得て様々な人間と関わったクリスは知った。
 人類にだけ与えられた、富こそが、最も尊び、更に発展させるべきではないのか…… 大都会、ロンドンの歌姫ミューズの一人として崇められ、多くの人間ヒトを楽しませて来たクリスは、充実感に満たされる反面、そんなやり場の無い思いを抱えていた。
 が、アンジェリークという少女――人間に出会い、何故か、少しだけ救われた気がしたのだ。何か違う力がある。だからこそ、彼女だけは、餌食にして欲しくなかった。

「君も、そんな大口を叩けるようにまでなったのだな。……誰のおかげで、ここまでの名声を得られたか忘れたか?」

 クリスの言葉が少し逆鱗に触れ、声を荒げた団長に対し、冷静な態度を崩さず、歌姫ミューズは続ける。

「鳴かなくなったカナリアを……無理矢理鳴くように仕向けたら、その隊は――やがて、自滅します」

 石炭という貴重な財源を求め、イギリスの炭鉱夫の部隊は、煙とすすにまみれた鉱山に似つかわしいとは言えない、カナリアという美しい小鳥を、必ず共に連れて行く。
 狭い洞穴に有害な毒ガス……一酸化炭素が充満する直前、瞬時に危険を察知して鳴き出すという、人間ヒトよりも機敏な呼吸器を持つ生態を利用する為だ。彼らの鳴き声を無視したり、正確に鳴けなくなった時は、その隊全体の死を意味する。
 カナリアとアンジュを重ね合わせ、その話を持ち出した彼女の、どこか憐れみめいた口調。ふと、別の理由で同じように権力を使ってきた、一人の青年の姿が、団長の脳裏をよぎった。

「人嫌いと評判の次男坊まで、以前、詰め寄ってきた。何故、皆、あの娘にそんなに肩入れする? 楽団が潰れたら、君だって……」

 そこまで言った後、ははっ、と自棄やけ気味に乾いた笑いを上げた。

「そうか、そうだな。君は、もう独りでも……」

 ワーグナー団長は、クリスにとっても恩人であり、共に歩んできたビジネスパートナーでもあった。しかし、かつて尊敬し止まなかった師への、恩義や信頼という感情は、今や別のモノに移り変わっている。

「私は、カナリアではありません。……ですが、ずっと不当に飼われ続ける、籠の鳥にもなりませんよ」

 哀しくも毅然とした面持ちで、クリスは、艶やかな美声で、きっぱりと言い放った。己の夢のためとはいえ、様々な理不尽な辛酸も舐めてきた、今までの苦楽を振り返り、誇るように。


↓次話


 #創作大賞2023 

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