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戦火のアンジェリーク(10) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第二幕部分(R15)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

2.London ~ the UK

断崖の死角へ


 ホテル前に停めていた馬車に素早く乗り込み、屋敷に戻る間、事の経緯をジェラルドは話した。微かに震えているアンジュの身体をコートごと抱きながら、クリスの事、居場所を見つけた方法、公爵の名前を出してオーナーを問い詰めた事などを、なるべく簡潔に説明する。
 相槌を打ちながらも、始終、どこか魂の抜けたような様子のアンジュが、ジェラルドは恐ろしかった。今までの彼女でなくなっていたらどうしたら良いのか、何と償えば良いのかと、様々な罪悪感が押し寄せている。

 邸宅に到着すると、なるべく自然を装いながら玄関からそっと廊下を通り抜け、螺旋らせん階段を上がり、ジェラルドの自室に入る。開口一番、アンジュは彼に頭を下げ、静かに礼を述べた。

「……あの、ありがとうございました。ご迷惑おかけしてしまって……」
「君が謝ることじゃないだろ」

 ぴしゃり、とした物言いの中に、どこか哀しみの色を交えた彼の眼差しに、アンジュは戸惑う。

「大方、逆らえば、俺のを世間にばらすとでも言われて、脅されたんだろうが……」
「…………!!」

 重く暗い声色ではっきり言い当てられ、アンジュは更に口ごもった。全てさとられている。責任を感じて欲しくなかったが、誤魔化したり、言い逃れられる雰囲気は無い。

「……そ、それだけじゃ、ありません。楽団に契約の圧力をかけたそうですし、それに……」
「何だ?」
「……歌える場所を無くすのは、嫌だったから。友達との約束を……守れなく、なってしまいます」
「……!! 君がこんな目に遭ってまで成功する事を、そいつは望んでるのか!?」

 これが彼女の本音だと思ったジェラルドは、思わず声を荒げる。

「…………!!」

 はっ、とアンジュの中で何かが醒めた。脳裏にフィリップの笑顔がよぎる。そんな彼女の様子を見て、ジェラルドの胸奥に焼けるような痛みが、ちりちり、と走る。この話題は出来るだけしたくなかったが、好いた女が理不尽に利用され、あんな奴の餌食にされるのは、もっと耐えられない。
 詳しい事情は知らないが、自分との約束の為に彼女を危険に晒せる男なら、絶対に許さないと思った。だが……

「そこまでしてでも楽団で歌いたいなら、俺に止める権利は無い。アイツに詫びて、同じ事を続けたら元通りに収まるだろう…… むしろ、余計な世話だったなら悪かった…… 俺が、交渉する」

 我に返り、自嘲気味にジェラルドは詫びた。彼女の危機だと奔走したが、かえって横槍を入れたのではないか……

「そ、んなこと、ありません……! とても怖かったし、嫌だったです、から…… 貴方が来てくれて、また、会えて……嬉しかった……」

 まだ震えが止まらない身体を両手で抑え、彼の悲しげな顔を見つめ、訴え続ける。

「……歌は歌いたい、です。でも、今みたいな仕事が、いつまで続くかわからないのは……辛い、です。それに……」

 あの男に頭を下げ、また同じような事をされ続ける…… しかも、への当て付けで、だ。しかし、続きの言葉を慌てて呑み込み、俯く。これ以上、変に気負ってほしくない。

「何だ?」
「いえ……」

 少しいぶかしげな思いに駆られたが、今後の彼女が心配で堪らない。

「……君にとって、ますます悪い状況になっているのは確かだろう…… 楽団から離れた方が良いと、俺は思うが……」
「ですが、あの人が圧力をかけたら、クリスさんや、団員の皆さんに迷惑が……」
「彼女は大丈夫だろう。……こんな仕打ちをする組織に、まだ義理立てするのか?」

 自虐的なのか真性のお人好しなのか……ジェラルドには理解出来なかった。

「どうしたらいいか……分かりません。買われた身ですが、少なからず……恩もあるのです」

 複雑な想いを抱きながら、哀しげにアンジュは呟いた。

「……団長は、どうするかな。君を守ってくれるか、アイツに屈服するか……」
「…………」

 混乱している彼女に整理して考えてもらいたく、ジェラルドは提示する。

「ここまでする位の状況だ。ウチとの契約の為に君を売り続けるか、逆らうならクビにしそうだな。で、いずれにしろ、君はアイツのになる」
「……あの人も、そう言ってました」

 逃げ場も突破口も無い。どこまでも自分は無力だと、アンジュは愕然とした。せめてチャンスを生かしたい、独り立ちできるように歌を磨きたい、と頑張ってきたけれど、まだまだ足りない。
 理不尽なものに刃向かう力も知識も無い、弱い人間だと思っていたけれど、巨大な組織から見たら、本当にちっぽけな存在なのだと自嘲した。

「……俺は、今夜、ロンドンを発つ事にした」
「えっ!?」

 突然のジェラルドの決断に驚愕し、彼を凝視する。

「一緒に……来ないか? いや……来て、欲しい」
「…………!?」

 初めて見る、熱く真っ直ぐな眼差しの彼に、心を射抜かれる。

「スコットさんに、ウェールズ地方に住む友人を紹介してもらった。近いうち、ロンドンにも空襲が来るだろう。避難した方が身の為だ。公爵と話をつけてからと迷っていたが、アイツのおかげで腹が決まった」
「スコットさんが……!?」

 花盛りの庭園の中、穏やかな笑みに哀しみを秘めた庭師の姿が、アンジュの脳裏に浮かぶ。彼の思惑が気になったが、ずっと早口で話し、いている様子のジェラルドに問う余裕はなかった。

「遺産分与は放棄する事になるから、仕事を見つけても、貧乏暮らしだろうが」
「ジェラルド、さん……」

 自棄やけ気味に吐き捨てる反面、どこか挑戦的な笑みを、彼は浮かべている。

「別に俺とどうこうなれ、という訳ではないからな。君が生活をやり直す手助けさえ出来ればいい、と考えてる。せめてもの……詫びだ。有名な楽団の歌手という肩書きは捨てるが……手を切るには、良い機会じゃないか……?」

 念のため手切れ金を公爵に用意した事は、ジェラルドはえて言わなかった。個人的な想い故に、彼女の負い目になるのは避けたい……
 一方、アンジュは、彼と自分との間に思い違いを感じたが、彼の誠意と申し出はありがたいと思った。不安、迷い、喜び――様々な思いと考えが、脳裏を駆け巡る。今までの様々な出来事、出会い、言葉……

『……何を一番、望んでいるのか。心の声を、よく聞いて』

 今の状況、近い未来で、一番大切にしたいのは……

「……行きます。一緒に」

 うれいたマリンブルーの瞳の中に、信頼の灯りが垣間見る。疑いの余地などなかった。そんなアンジュの眼差しに、ジェラルドは安堵と高鳴る歓喜を、心の内にひた隠した。


 ふと、彼女の出で立ちを見る。今着ているコートとランジェリー、手持ちのフォーマルドレスでは、長い旅路には冷えるし、人目につくだろう……
 少し待つよう言い、部屋から出て行った彼は、暫くすると、数着の女性物の衣類を両腕に抱え、足早に戻って来た。
 ワイン色のウールカーディガンに白いブラウス、ロングスカート、編み上げのロングブーツ、小ぶりの洒落た帽子に手袋、女性用のボストンバッグ…… 下着はさすがになかったが、綿のルームワンピースやネグリジェまである。
 シンプルなデザインの物ばかりだが、どれも質の良さそうな品だ。困惑したアンジュは問いかける。

「あの……これは……?」
「悪いが、君の私物を取りに行く時間が無い。母の衣装部屋から合いそうなのをいくつか選んで来たから、とりあえず、これで我慢してくれ」
「そんな……!! 勝手に持って行ったらダメですよ!!」

 いくら何でも盗みはいけないと、アンジュは慌てて咎めた。しかも、公爵夫人……彼の母親は、幸い自分と同じ小柄であるが、グラマラスな体型だ。サイズが合うとはとても思えなかった。そんな彼女の複雑な心境を見透かしたように、口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。

「……こんなもの、あの女は腐るほど持ってる。着られなくなった物まで無駄に保管してるから、そこから頂戴した。気にしなくていい」


 サイズ等の不具合があれば言えと言われ、隣接したジェラルドの寝室で、アンジュは着替え始めた。の香りがほのかに漂う寝室で、乱れていた下着を整え、胸元に付けられた忌まわしい痣を、その人の母親の服で隠すように袖を通す。妙に気恥ずかしく落ち着かない気分だ。やはり、服は大きめだったが、なんとか着られそうだった。
 その間、ジェラルドは書斎で自分の荷造りをする。最低限の衣類に日用品、万年筆などの筆記具、今持てる範囲の貴金属などの品、愛読している数冊の本をトランクケースに詰め込む。そして、楽譜を手に取った。御守りのようなものだ。
 ここを出たら暫くは、ピアノに触ることは無いかもしれない。今まで自分を支えてきた物達との別れでもあった。しかし、ピアノや薔薇と同等……いや、それ以上に大切な人がいる今は、その命を助け、今度は自分が支えたい――
 楽譜を大切にファイリングし、トランクの一番上に閉まった。そして、半ば置き棄てるかのように、以前したためた『決意表明』を、デスク上に放つ。

「こっちは整った。もう、いいか?」
「……は、はい」

 書斎のドアから、恐る恐る入ってきたアンジュの姿に、ジェラルドは瞳孔を見開いた。
 ……似合っていたのだ。予想以上に。そこには、清楚で可憐な中に、柔らかな品のある淑女レディがいた。身分や育ちなんてまるで関係無い位に……綺麗だった。

「あの、やっぱり変じゃないですか……? こんな素敵なお洋服……私には……」

 固まって黙り込んでしまった彼に、アンジュは不安そうに問う。

「……ジェラルド、さん?」
「あ、いや…… 大丈夫じゃないか……?」

 複雑そうに茶を濁し、不自然に視線を泳がせる彼が可笑しく……何故か抱きしめたくなった。


 玄関や邸宅付近は、衛兵が番をしている。客人が帰り、自分達がいなくなった事がバレる前……今夜の晩餐会が終わるまでに、彼らの死角になる、三階の部屋の窓から抜け出すという計画だ。
 ベッドシーツをいくつも使って、急いで布梯子はしごを作り、先にトランク等の荷物をくくりつけ、慎重に窓から落下させた。次は自分達の番だ。先にジェラルドが用心深く降りる。

「怖いだろうが、なんとか降りてくれ」
「大丈夫です」

 地上の真下から、怪訝な表情をして自分を見上げている彼に、少し言い淀みながらアンジュは答えた。

「……子供の頃、大きな椰子の木を、登り降りしてましたから」

 一瞬の沈黙の後、ジェラルドが俯き、口元を覆っているのが見えた。押し殺したような吐息と共に、いつか聞いた、くっくっ、というくすぶるような音色が静かに響く。久しぶりに聞く彼らしい笑い声に、アンジュの胸に明かりが灯った。

「……それはまた、頼もしいな」


 邸宅からは楽曲の音色がまだ漏れている。どうやらアンコールに入ったらしく、歓声と拍手が響き渡った。

「時間が無い。行くぞ……一先ひとまず、駅まで」

 視線を外したジェラルドは、黙って、左手を差し出した。暮明くらがりの中でも、彼の頬がうっすらと赤らんでいるのがわかった。意図を察したアンジュは、甘い喜びに震えながら、おずおずと自分の右手を重ねる。骨ばった長い指が、そんな彼女の手をぐっ、と握った瞬間、彼は小走りに駆け出した。
 人目につかないよう、街灯の少ない道をひたすら突き進んで行く。視界の灯りが消えてゆくと、次第に宵闇に染まっていった。冬の長い夜更けのロンドンの街には、濃い霧が漂っている為、辺り一面が朧気で心許ない。目を凝らさないと、周りの様子すら見えない。

 ――夜の海底を泳いでいるみたい……

 オーストラリアの深夜の海でも、仄かな月明かりや星の瞬きが、導くように照らしてくれていたのを思い出す。が、今は暗闇しかない。これからだって、先の見えない洞窟を手探りで進んで行くような、無謀な賭けだ。今起こっていることが現実なのか、夢なのか…… 意識すら、ぼんやりと曖昧に揺れる。
 ただ、繋がれた左手の内側に感じる、ほのかな温もりと自分以外の肌の感触だけは、はっきりとリアルに感じていた。手の甲は冷えて感覚が無いのに、掌と指先は、手袋越しでも温かな血が通っているのがわかる。

 ――どうか、この温もりだけは、奪わないでほしい。恐ろしいものから守りたい。見つからないで済むのなら、闇の中でもいいから、この霧に紛れて隠れていたい……


 オーストラリアから旅立つ日、身震いする位に怖かったのを思い出す。たった一人きりで、異空間に放り出されるような……そんな挫けそうな動かない心を奮い立たせてくれたのは、フィリップとの約束だった。夢を叶えるために未知の世界へ踏み出すという、先を見た希望。
 今は、どうだろうか。その約束を果たすチャンスを、一つ失う。それどころか、これからどうなるのか、まるで予想できない。何処どこに行くのか、どうやって生きていくのか…… いや、生き延びていけるかさえ、危ういのだ。
 不安で、怖くて堪らない。少しでも気を緩めると足がすくんで、その場に崩れ落ちそうな眩暈が襲う。しかし、同時に未知の高揚感も抱いていた。断崖絶壁を歩いているも同然なのに――心が通じ合えた大切なひとが、共にいる。それだけで、以前には感じなかった温かな感覚が、アンジュの胸奥を漂い、占めていた。
 はち切れんばかりの恐怖と不安を、天からの光明のような満ち足りた幸福感が包んでいる。そこには何の根拠も保証も無いのに、そんな矛盾した不可思議な確信が存在しているのだ。今、自分の手を握っている、この人の為なら何でもできる。この人といられるなら頑張っていける――という熱い想いが、彼女の中にあった。


 新たな産声をあげたばかりのアンジェリークは、自身を飲み込む闇の世界を、つたないながらも飛ぶように泳ぎ、駆けている。
 再び歌えること、生き抜いていけることを、神に願いながら。


↓次幕【ウェールズ編】に続く


 #創作大賞2023 

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