戦火のアンジェリーク(3) 1.Australia
1.Australia
Good, bye……
翌日。アンジュは、フィリップと待ち合わせた、いつもの海辺に来ていた。しかし、いつまで経っても彼は現れない。後に来るはずのエレンも、一向に来る気配が無い。
すっかり秋が深くなった海辺は、どこか寂しげに見える。ひんやりとした冷たい風が吹き抜け、鮮やかに紅く色づいた木の葉を舞い上がらせている。心細い気持ちを抱きしめ、アンジュは、時間が許す限り、ひたすら待ち続けた。
次の日も、そのまた次の日も、フィリップもエレンも、全く現れない。
――どうして……? どうして、来てくれないの……?
――何かあったの……? フィリップ……? エレン……?
二人が来なくなってから一週間が経ち、さすがに心配になったアンジュは、以前、父親の別荘だと教えてもらっていた、フィリップの屋敷を尋ねる事にした。頭上の空は、今にも泣き出しそうな曇天で、灰色の雨雲で覆いつくされている。まるで、今のアンジュの心境のようだ。
ようやく、町外れにあるレンガ造りの屋敷に辿り着くと、潰れそうな心を抑えながら、立派な装飾の付いた門の呼び鈴を、勢いよく鳴らした。暫くすると屋敷の扉から、黒地の制服に白いエプロン姿の、厳格な風格のある、メイドらしき女性が出て来た。
「何か、御用ですか?」
鉄格子の門越しに、冷たく威圧的で口調で彼女は問う。アンジュは怯えて圧倒され、内心挫けそうになったが、ありったけの勇気を振り絞り、口を開いた。
「あ……あの、フィリップ……フィリップ様に、お会いしたいのですが」
「坊っちゃんは、誰にもお会いにならないと仰っております。どうかお引き取り下さい」
機械的な口調で、思いがけない言葉を放つメイドに、アンジュは狼狽える。
「えっ…… どうしてですか?」
「存じません。もうお帰り下さい」
硬い鉄格子を握り締めながら、必死に問うアンジュだったが、メイドの女性は淡々と突き放ち、屋敷の中へ戻って行った。
「待って……待って下さい! フィリップ様と話をさせて下さい……!! お願いします!!」
精一杯の声を張り上げ、必死に乞う。しかし、無情にも屋敷の扉は閉まり、曇天の空からは冷たい雨粒が、パラパラ落ちてきた。
アンジュの眼からも、大粒の水滴が、あとからあとから、零れ出す。暫くの間、呆然と立ち尽くしていたが、雨脚が強くなった頃、濡れた体を引きずるように、ゆっくりと、その場を後にした。
その一部始終を、フィリップは自分の部屋の窓から見ていた。彼の眼からも、一筋の涙が、つたい流れている。
――アンジュ。許してくれ。今の僕には、こうするしかできない。
――だって、言える訳がない。君が孤児院の子だから、もう会えないだなんて……深く傷つける。
――それなら、いっそのこと、酷い奴だと思って、嫌ってもらった方がいい……!!
ぎゅっ、と唇を噛み締め、フィリップは、拳で壁を思い切り叩き、その場に崩れ落ちた。
降りしきる雨に打たれながら、アンジュは歩いて来た道を無意識に辿っていた。頭から足の先までびしょ濡れで、顔に付いた水滴が、涙なのか、雨なのかも分からない。『どうして?』という言葉が、茫然自失した脳裏の中を、ずっと駆け巡り続けている。
――どうして、会ってくれないの?
――どうして、避けるの?
――どうして、離れていくの?
――『また明日ね』って言って、笑って別れたのに……
――私、何かしたの? だから、嫌いになったの……?
何か理由があるに違いない。そう思わないと、今、この場で泣き崩れそうだ。降りしきる雨の中を無気力に歩いているうち、いつの間にか孤児院に着いていた。自分の部屋に入るなり、すぐさまベッドに倒れこみ、そのまま気を失った。
翌日。アンジュは風邪をひいて寝込んでしまった。院長にさんざん小言を言われた後、自分で作ったミルクがゆを食べる。あんなに辛い事があったのに、悲しくて悲しくて、心が潰れそうに辛かったのに、朝、ちゃんとお腹はすいていた。
クルクル、と小さな音を鳴らしながら、ミルクがゆを消化していく胃の辺りをさする。こんな時でも栄養を求めて、生きようとしている自分の体が、アンジュは不思議だった。
――何で『食べたい』なんて、思えるんだろう……
昨日の出来事は、自分の中でまだ消化出来ていない。起こった事を受け入れるには、時間が足りなさ過ぎる。誰を責めればいいのか、何を恨めばいいのかわからなくて、この苦しさの行き場を見つけられずにいた。
心が痛かった。ものすごく、裂かれるように痛かった。心が悲鳴を上げてるのが判る。でも、治し方は分からない。誰かに避けられて離れていかれたのは、これが初めてじゃなかった。しかし、今回は、最も辛く、苦しい別れだ。
「……どうして?」
アンジュの眼から、また涙が零れ落ち、皿の中に、幾つもの波紋を作った。
数日後、ようやく風邪が治ったアンジュは、一人でいつもの海辺に来ていた。あんなことがあっても、何故か来ずにはいられなかったのだ。
フィリップは、ここには二度と来ないだろう、と何となく察していたが、心のどこかで、もしかしたら来てくれるんじゃないか、という淡い期待もしていた。
そんな諦めと期待の混ざった、複雑な気持ちを抱えながら、遠く虚ろな目をして、眼前に広がる、くすんだ群青色の海を眺める。
ザ……ン ザザ……ン…………
寄せては返す波は、アンジュの不安定な心を表しているかのようだ。海を見ていると、フィリップと過ごした日々を思い出す。
彼のサーフィンの、最高に綺麗なライディング。白波と一体になり、本当に美しくて……素敵だった。一緒に食べた、お弁当のサンドイッチの味。物を食べて、初めて心から美味しいと感じた瞬間だった。怪我の手当てをしてくれた日……あの時の夕陽は、本当に、本当に綺麗だった……
落ち込んでたら、優しく励ましてくれた。指切りして交わした、大切な約束。彼の声が、言葉が、笑顔が、頭から離れない。彼に似た人を見かけると、思わず目で追ってしまう。
笑って、泣いて、楽しかった、大切な時間。なのに、今はその思い出が、とても辛くて、痛い……
――フィリップ……フィリップ……フィリップ!!
何度も、何度も、心の声で彼の名を叫び、呼んだ。比例するように、泣いても泣いても、関を切ってしまったのか、滴は止めどなく溢れてくる。
彼がいたから、毎日が楽しかった。彼がいたから、嫌な事があっても頑張れた。
彼がいたから、初めて笑うことが出来た。彼がいたから、初めて人前で泣くことが出来た。
今まで知らなかった幸せな時間を過ごせた、やっと出来た、大切な友達だったのだ。もし、このまま、彼が離れていったら、自分はどうなるのだろうか……
――怖い。怖い。怖くて堪らない。神様は、どうして、こうなるようにしたのですか……?
――どうして、こんな目に遭わせるのですか……辛すぎます……
いつもの海、いつもの空、いつもの砂浜……変わらない、見慣れた風景。なのに彼だけがそこにいない…… いつか離れていかれるのなら、別れが来るのなら、こんなに痛いのなら、もう誰とも、心通わせなくていい……!!
がくり、とアンジュはその場に崩れ落ち――慟哭した。
一ヶ月後、季節は初冬を迎えていた。相変わらず、フィリップもエレンも、姿を現さなかったが、アンジュは海辺に行くことは止めなかった。
フィリップとの出来事を、どう受け止めたらいいのかまだ分からなかったのだ。そんな未練がましい自分が嫌だったが、そうするしか出来ないでいる。
そんな思いを振り切るように、アンジュは孤児院でも、なるべく平静を装っていて、今日は市場に買い物に来ていた。
「こんにちは」
「おっ、いらっしゃい。アンジュちゃん。今日は、じゃがいもが安いよ」
馴染みの八百屋の主人に声をかけて、野菜を選んでいると、通りすがりの二人組の女性の会話が、背後から聞こえてきた。
「……でね、そのベルモント家の坊っちゃんが……」
「ああ、あの町外れの大きなお屋敷の?」
『ベルモント家』『町外れのお屋敷』という単語を聞いた瞬間、アンジュは銅像のように硬直した。そんな彼女に、追い討ちをかける言葉が続く。
「そうそう。フィリップ様。素敵だったわよねぇ。幼なじみの富豪のお嬢様と婚約したらしいのよ。えっと、確か、エレンとかいう」
アンジュは耳を疑った。今、『婚約』って、言った……?
「あら、まさか、政略結婚?」
「そう。で、故郷のフランスに、二人で帰ったみたいよ。まだ若いのにねぇ」
そう、口々に言いながら、女性達は立ち去って行った。
じゃがいもを手にしたまま、ついさっき聞いた言葉の数々が信じられず、アンジュは呆然としている。
――フィリップが婚約…… 相手はエレン…… 政略結婚……
そこまで復唱した時、はっ、と気づいた。
――もしかして…… ご両親に私との関わりを知られて反対されて……それで、急に会わないなんて言ったんじゃ……
――でも、恋人じゃないのに…… それなら、そう言ってくれたらいいのに……どうして……?
「アンジュちゃん? 大丈夫かい?」
青ざめている彼女に、八百屋の主人が、心配そうに声をかけた。はっ、と我に返って、アンジュは主人を見返す。
「君も坊っちゃんのファンだったのかい? 彼は、この街の女の子のアイドルだったしね。でも…… まぁ、しょうがないよね。やっぱり儂らとは、住む世界が違うっていうかさ」
主人の言葉で、また愕然とした。フィリップは身分が違う。しかも、自分は、孤児院の……
アンジュは、彼が何も言わないまま、突然離れて行った理由を察した。彼と楽しい時間を過ごしているうちに、いつの間にか、自分達を隔てる見えない壁の存在を忘れていたのだ……
――私を傷つけないように、わざとあんな別れ方をしたんだ…… 本当に……最後の最後まで、優しいんだから……
真実は、彼女にとって非常に残酷で、気が遠くなる程に辛いものだった。でも、彼が残してくれた優しさのおかげで、幾分か救われていた。
そんなフィリップの想いに感謝し、アンジュは別れを受け入れる覚悟をした。彼の優しさを、無駄にしたくなかったのだ。心の中に、儚くも美しい思い出をそっ、と残し……改めて、彼を想う。
――フィリップ。もう二度と会えないかもしれないけど、せめて、私の中だけで、友達って思わせてもらっていいですか……?
――貴方は、私の初めての友達で、初めて好きになった人なの……
自分にとって大切な人を失うのが、どんなに辛いのかという事を、アンジュは、生まれて初めて痛い程味わっていた。
これは彼女の人生に訪れる、苦難の始まりに過ぎない。しかし、そんなことは知るはずもなく、ただ、今は、突然やって来た深い悲しみに耐え、受け入れるしかなかった。
夢に旅立つ
一年の月日が流れた。フィリップと別れてからのアンジュの日常は、時が逆行したかのように、以前の日々に戻り、独りで青春を過ごしていた。家事や雑用、子守りに追われ、休憩時間には、いつもの椰子の木の上で、好きな歌を歌っている。
彼がいなくなってからも、海辺に行くことは止めなかった。彼女にとって、これが習慣になってしまっていたのもあるが、彼との思い出に、少しでも関わっていたかったのだ。
だが、変わった事も、確かにあった。彼が遺してくれたものは、アンジュの心の中で宝として存在している。身体にも変化があった。この町に引き取られてきた頃、『ガリガリの痩せぎす、器量も人並み』と言われた外見だ。今では年頃の少女らしく垢抜け、少しばかり丸みを帯びた体型に成長していた。
とは言うもの、時たま、フィリップに似た風貌の少年を見かける度、驚き、期待し、失望するという連鎖で心は疲弊していたのだが、忘れることはできなかった。
消してしまえば、どんなに楽かもしれなかったが、あの目映く尊い日々を過ごし、今に至る自分を、全否定するような気がしたのだ。ただ、抱える思い出が綺麗過ぎて、大切過ぎて、自分には分不相応だと、重く痛く感じる時もあったのだが……
今年で、ついに十六歳になるらしい。孤児院を卒業する日が近づいていた。嫌でも院を出なければいけない。養子として貰い手のない彼女は、どこかで働くしかなかった。かといって、職種を選べる程の知識も経験もない。
――このまま放り出されるのかな…… 何も知らないまま……
――ちゃんと働けるのかな…… 家事と子守り、簡単な読み書きくらいしか出来ないのに……
そんな不安を抱えながら、惰性的な日々を送っていた。十五年以上、ろくに勉学をして来なかった自分が、世の中の理を何も知らない自分が、いきなり外の世界に出て、果たして生きていけるのだろうか。
内実は、時が来たと、叔母でもある院長が、下働きとして働かせるなり、身売りするなり、なるべく高値で引き渡せる所を、必死に探している最中だったのだが……
――こんな時、フィリップがいてくれたらな…… どこでも頑張れるのに……
春は近づいていたが、まだ海も空もブルーグレー。どこか物悲しい冬の色をしていた。ひやり、とした冷たい木枯らしが吹き抜け、アンジュの膝に、もう何粒目なのか分からない、涙の雫がぽたり、と落ちた。
以前より涙腺が緩くなり、感情の振り幅が少し広がった、というのも、フィリップがくれたものの一つだ。暗く沈んだ弱気な心を振り切るように、涙を拭って、以前、彼が好きだと言っていた、フランスの民謡を口ずさんだ。
どこにいるか分からない、海の向こうの彼の人に届くよう……想いを込めて。
そんな彼女を、一人の年配の男が少し離れた物陰から、じっ、と見ていた。
数日後の夜。夕食の後片付けをしていると、アンジュは、院長に話があると呼び出された。急に何だろう……という不安な気持ちを胸に、院長の部屋を訪ねる。
「あの、話って……?」
少し警戒しながら、おずおずと尋ねる。ロッキングチェアに深く腰掛け、先程、アンジュが淹れた、湯気の立っているコーヒーを飲みながら、院長は、淡々と切り出した。
「アンジュ。お前に働き口が出来たから、近いうちに出て行きなさい」
唐突な彼女の言葉に、アンジュは面食らった。急に出て行けって……
「先生、それは……」
「浜辺で歌っているのを、英国の楽団の偉い方が聴いていたらしくてね。雇いたいと仰ってくれてるんだよ」
何かの間違いではないか、と耳を疑った。歌を聴いてくれていた。楽団の人。雇いたい。どれも信じられないような、夢みたいな話だった。
あの時、フィリップを想って歌った歌が、認められたのだ。でも、英国の楽団ということは……
「今はその方が、たまたまこっちに来てるけど、なるべく早くお前を連れて、ロンドンへ戻りたいそうよ」
――英国……イギリス……ロンドン…… 海を渡る……?
住み慣れたこの土地を離れて、赤道を越え、見ず知らずの北半球の国へ行って働く…… しかも、英国のロンドンという都市は、フランスのパリに並ぶ由緒ある大都会だと、同じ欧州に住むフィリップから、以前に聞いて知っていた。
「まあ、お前がいなくなるのは困るけど…… そろそろ頃合いだし、いつまでも置いておく訳にはいかないから」
――そういう、こと……
取り成すような言葉に、アンジュは心の中で空虚に呟く。メイド代わりがいなくなるのは困るけれど、厄介払いをしたいからなのだろう……と思った。
実際、院長は巧みに交渉し、楽団側と良い値で取引きが出来たのだ。そんな内情は知らない彼女は、無力な自分が改めて悲しくなり、小さくため息をつく。
問題は……住み慣れたこの土地を離れ、イギリスという、海を越えた未知の国へ行くということだ。無理もない話だ。十年と少しの間、この小さな町の中でずっと生きてきたのに、いきなり遥か北の見知らぬ土地……大都会で暮らすのだから。
「まさか、嫌だなんて言うんじゃないだろうね? お前なんかを雇いたいなんて勿体無い話よ。出発の準備をしておきなさい」
「…………」
「何? 不満なの?」
相変わらず勝手で理不尽な院長に、改めて腹立っていたアンジュだったが、どう反論するべきか判らなかったので、「いえ。解りました」とだけ返答し、自室に戻った。
就寝の支度をしている間、院長に言われた言葉について、ずっと考える。喜び、不安、悲しみが、心の中でミックスされ、溢れ返っていて、なかなか整理できない。
自分の歌が認められたのは、嬉しい。だが、北の海の彼方にある、見知らぬ異国へ行かなくてはならない。それに、そんなに有名な楽団で通用するのだろうか。しかし、ここで断ったら、このまま何も当ての無いまま、孤児院から放り出される……
長いウェーブの髪をとかしながら、壁に掛けられた古びた小さな鏡に自分の姿を映し、そっ、と鏡面に触れる。
――ねぇ、私、どうすればいい……?
心の中で問いかけた。フィリップがいなくなってから、誰かに相談したい時は、こうして、虚像の自分に語りかけていたのだ。
鏡の向こうの彼女は、何も言わない。ふふ、と自嘲気味に笑い、アンジュはベッドに潜り込んだ。なかなか寝つけない。体も心も、芯から冷えきっている。
人の優しさ、温かさを知ってしまった今、必然的にいつも求めてしまう。一度味わってしまったからか以前のように、一人きりで頑張ることは、二度とできない気がした。
――知らない方が良かった? その方が、強くいられた……?
微睡みの中、眠りに落ちる直前、フィリップの明るい笑顔が浮かんだが、その像を振り切るかのように、アンジュは、きつく目を閉じた。
翌日の午後。アンジュは、いつもの海辺に来て、椰子の木の上から海を眺めていた。
――そうか。こことも、お別れなのね……
大好きな海。大好きな空。大好きな波音。大切な時間が詰まった場所。
――フィリップとの思い出もいっぱいなのに、離れないといけない……
もし、ここに彼が居たら、何て言うだろうか。『行くべきだ』? それとも『行かない方がいい』? フィリップの明るい笑顔を思い出しながら、考える。
――……この話をしたら、きっと喜んでくれるわね。『おめでとう!』って言って、笑ってくれるだろうな……
瞬間、彼と交わした約束が、脳裏にフィードバックする。
『君は夢を叶えて欲しい。僕の分まで、夢を忘れないで生きて欲しいんだ』
『君の歌声は、もっと沢山の人に聴いてもらいたい。それだけの価値があると思う。少なくとも、僕は元気になれた』
『いつか、大勢の人の前で歌う君を見てみたい。僕は誇りに思うよ』
そうだ。あの時、確かに約束したのだ。
『約束するわ。まだ何ができるか分からないけど、貴方の言葉は、絶対に忘れない』
今でもはっきり思い出せる。彼の言葉も、自分の言葉も。自分の歌を褒めてくれた。自分なんかの歌で、元気になれた、癒されたと言ってくれた。もっと沢山の人に聴いてもらいたいとまで言ってくれた。『僕の分まで、夢を持って生きて欲しい』と……
――夢……私の、夢は……
そこまで考えた時、アンジュの心は、固く決まった。
――行こう。ロンドンへ。歌い手、歌手を目指そう。
――彼みたいに、沢山の人に元気になってもらえるような、歌手になりたい…… それが、今の、私の夢。
これは、いい機会かもしれない。住み慣れた土地を離れるのはとても不安だけど、思い出にすがり付いて死んだように生きていても、彼は、きっと喜ばないだろう……
アンジュは、故郷を離れることを決意した。心なしか、昨日まで暗く沈んだ色をしていた海が、今は儚くも穏やかな冬の光に照らされ、オーロラのように、七色に煌めいているような気がした。
瞬く間に日は過ぎ、出発の時がやって来た。前日の夕方、アンジュは、大好きだったいつもの海辺に来ていた。目の前に広がる風景は、十年前と何も変わらない。
今の時期は、少し霞んでいるけれど、透き通るターコイズグリーンの美しい海は、昨日と変わらない。綿菓子のような白い雲、澄んだ青い空。照りつける陽射し、海面に見える色とりどりのサーフボード……
ここで過ごす事は、暫く無いんだな……と少し寂しくなる。色んな出来事があった。辛い思いもしたけれど、楽しい時間も沢山あった。この海は、いつも慰めてくれた。元気をくれた。勇気をくれた。嬉しい時も、悲しい時も、いつも一緒にいてくれたのだ。
今日までの彼女の日々を知っている、地球上全ての生命の始まりで、源である、偉大で尊い存在。どこで生まれたのか分からないけれど、この海が、彼女の故郷で、帰る場所だった。
「きっと、必ず帰って来るから、それまで、どうか待ってて…… 行って、来ます……」
静かに、アンジュは呟いた。泣くことはしなかった。海と同じ色をしたマリンブルーの瞳は、強い意志に満ちていた。
世界は、世の中は、変わってゆくものばかりだけれど、この美しい海だけは、貴い景色だけは、未来永劫、ずっと変わらない。そう……信じていた。
翌朝。迎えに来た楽団の遣いと共に、小さなボストンバッグだけを持って、アンジュは、孤児院の玄関先に居た。
別れ際でも、院長は特に何も言わなかった。血縁上の叔母でもあるが、良い思い出が無い。嫌な印象の方が多かった。それがアンジュには悲しく、何とも言えない胸詰まりがあった。でも、自分を十年間預かってくれた人でもある、と重い口を開く。
「今まで、ありがとうございました」
ゆっくりとお辞儀をして、十年間暮らした院の建物と、十字架のシンボルを見上げた。
十年と少し前、まだ幼子だった自分は、この入り口の前で、暗い表情をして怯えていたらしい。そして今は、同じ場所から旅立とうとしている。
これから、どんな事が自分を待っているのか、はち切れんばかりの不安と恐怖で潰されそうだった。しかし、何があっても、フィリップと交わした約束だけは、きっと忘れないだろう。これからは、この誓いが、自分を支えてくれるはずだ。
大切な人との別れが、こんなにも痛くて辛いのなら、もう二度と、誰とも分かり合いたくないと思った。しかし、彼と出会えたから、今、自分は初めて夢を持てて、歩き出そうとしている。決して無駄ではない。無駄にしたくない。
――フィリップ、私、頑張るから。いつか、貴方の耳に入るくらいの、一人前の歌手になるから。いつか、また会おうね……
――これから先、貴方じゃない他の誰かを、好きになれるか……わからないけど……
先を歩いていた遣いの男に促され、アンジュは、前を向いて歩き出した。そして、二度と振り返らなかった。馬車に乗り込み、駅まで向かう途中、思い出の海辺が見えたが、あまり感傷には浸らなかった。
――きっと……帰って来るわ。
様々な運命に翻弄されながらも、アンジュはこうして自分の道を歩き始めた。そんな彼女を激励するかのように、故郷の水面は、より一層、光のヴェールの如く、美しく煌めいていた。
↓次幕【ロンドン編】に続く
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