見出し画像

親友という宝物とこれからの方向性

この1週間、やる気がない。モチベーションがあがらず、なにもする気にならない。

メンタルが非常に下がっているのかと言われると、そういうわけでもないけれど。ただただ、やる気がない。

原因はわかっている。
数日前、家族に言われた(相手にとっては)何気のない一言だった。
でも、わたしにとってその一言は、ここ数ヶ月のわたしの頑張りすべてを打ち砕くのには十分な破壊力をもっていて。

なんのために頑張ってるんだろう。
もう、頑張のつかれた。
もう、考えるのもつかれた。

そんなところにいた。


ずっと前から決まっていた、高校時代からの親友 of 親友との約束。
半年ぶりだった。


「つむはさ、もっと自己中心的になっていいし、もっと自分勝手に生きていいと思うよ」

わたしが毎朝寝起きに書いているノート。その日は子どもに付随するいろんな思いについて書いていた。そのノートを渡して、読んでもらい現状を把握してくれたあと、親友がそう言ってくれた。

わたしは「自己中心的に、自分勝手に、自分の思うようにっていうのが、どうするべきなのかがわからない」と答えた。

「そうだよね。つむは、そういう人だよね」と彼女はため息まじりに視線をコーヒーカップに落とした。


自分の中に巣食っているいろんな色の糸が絡み合って、ごちゃごちゃになってしまっている状態を、わたしはとりとめもなく話した。人としての自分。母親としての自分。子どもへの純粋な思いや祈り。正義感や責任感。純粋に、自分に関わる人たちを救ってあげたい、守ってあげたいという思い。子どもという存在に未だ絡みついてとれない、未だ癒されることなく、ジュクジュクと熱をもっている、過去のわたしの傷や恐れ、怒りや不安。矛盾しあう、その感情のすべてを。

親友はそんなわたしの話を、ときに涙目になりながら、真剣に聞いてくれた。そして、ふたりでその絡み合ってごちゃごちゃになってしまった思考と感情のかたまりを、一本一本、糸をほぐしていくことで、整理していった。


結局、親友と一緒にたどりついた結論は今までと同じだったけれど。

わたしという人間も、家族との幼少期からの関係も、わたしの性格や考え方、多重に重なり合う(人によっては一見すると)矛盾しているその思考やものごとの捉え方、感じ方を熟知している親友が話を聞いてくれて、客観的に意見を言ってくれるのは、ひとりでたどり答えにたどりついたときとは、その腑に落ちる感覚が段違いだった。

今の自分が優先すべきことも、これから先の(数年単位に及ぶかもしれないけれど)ゴールも見えてきた。そのために一歩ずつ、どういうステップを踏んでいかないといけないのかも。

やっぱり、親友ってすごいなあ、と思う。
人生の半分を共にしてきた人。
わたしにとっての「特別」だ。


中学まで、わたしには友達がいなかった。
いや、正確にはいなかったわけではない。でも、友達はクラスが違ったり、学校が違ったり、住んでいる町が違ったりしていた。クラスの中でも、学校の中でも、わたしはいつも浮いていた。孤独だった。

高校に入って、はじめて親友という存在ができた。
それは、ときにぶつかり合い、涙を流し合い、喧嘩し合いながら、すこしずつ繋がれていった、太くて、密度の濃い、切れることのない縁。


中学3年生のとき、高校のパンフレットを見ていた。
「この高校に来て、一生ものの親友ができました」
「この高校に入って、本当によかった」
高校の卒業生たちからの言葉が、そのパンフレットには掲載されていた。

ここに行きたいと思った。

そして、その高校の卒業生たちの言葉通り、わたしの高校生活はまさに青い春だった。そこで、一生ものの親友たちと出会えた。人生の中で、曇りなく、迷うことなく、「一切の後悔がない最高の選択だった」と胸をはって誇れることがあるとするならば。

あの中学3年生の日。
あの高校に入学することを決めたこと。
そして、その高校生活で、たくさん傷ついたり、笑ったり、涙を流したり、苦しんだり、幸せだったりを繰り返しながら、どんなにぶつかり合っても理解しあえなくても、この友情を諦めなかった自分だ。


とにもかくにも。
すこしずつ。

過去の自分の心の傷を癒していかないことには、どうしようもない。
それは時間がかかることなのかもしれないし、意外とやり方がわかればサクッとできることなのかもしれない。

よくわからないけれど。

すこしずつ。
進んでいこう。
ちゃんと、今、歩むべき道を歩んでいると、感じられたから。

サポートしていただいた方のことは忘れません