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クリスチャンとしての信仰を持ち肩の力が抜けた

中学時代にやっていたブログのタイトルをスキマスイッチの「全力少年」に因んで「全力少女」にしていた位、昔はひたすら全力必死に生きてた私。

小6時に癌の闘病生活を経た兄が亡くなり、兄の分まで自分の命を精一杯生きたいと思っていたから。

同時に結構特殊な育ち方をし「そもそも人より欠けが大きく出遅れているのだから、人の何倍も頑張らなければ自分に良い未来はない。」とも思ってた気がする。若さ故か、根拠のない自信みたいなものは持ち合わせてたけど。

でも私の"全力で生きる"とは世間的に良い結果を出す為のそれとは違って、飽くまで自己流。敷かれたレールを真っ直ぐに歩めるタイプではないし、そもそも基本的な親の愛情や、本来家庭から得られるはずのあらゆるものに飢えていた。

友人知人、そして何より祖父からはかなり助けられた。けれど若者が実家からの孤立無縁の中全力必死で生きたところで進める距離などたかが知れてて、自分の限界を突き付けられてばかりだった。気力、体力、能力、、思っていた以上に自分に力が無かった。弱々の弱だった。

上京資金を貯めるために働いていたアルバイト先で泣き崩れたり、飛び降りられ即死できる場所は無いかと名古屋の高いビル内を練り歩いたりしていた時代の節々、未だ景色も心境も鮮明に思い出せる。「全力で生きたい」から「死にたい」迄の振り幅...。

その後なんとか生き続け、東京行きを決行。生き続けたこと自体がもう、奇跡としか言いようがない。上京後も相変わらずギリギリのボロボロ。場所は変わっても自分からは逃げられないのだという絶望の淵に立っていた時、神様が現れてくれた。

「神様なんか居ない」「居たとしても私個人の人生には何ら関与してくれない存在」と思っていた私に、個人的に関わってくれる神様を心の目で見・信じられる瞬間を、人々を通して与えてくれた。

“しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。”

‭‭- ローマ人への手紙‬ ‭10:14‬ ‭

私は、自分で言ってしまえるくらいに頑張る人間だった。それは自画自賛なんかじゃなくて、常に危機管理をしながら血の滲む様な忍耐・努力をし続けなければ乗り越えられないことだらけだったから、もはやそれが癖になってしまっていた。

それがクリスチャンになって、頑張る時に"やれるところまでやったら後は神様に結果を委ねる"ことをするようになった。聖書を読みながら、自分の生き方・願い・セルフイメージを見つめ直し、沢山の執着や世的な価値観、考えを手放していった。多くの物事の見え方感じ方がみるみる変わっていった。

"世からインスピレーションを得た自分の理想"を追い求めるよりも、御心をこそ生きたいと思うようになった。それはそれまで以上に周りから理解されにくい歩み方であることは解っていたけれど、もはや世的に良しとされる生き方にも段々魅力を感じなくなっていっていた。

そしたら以前よりよっぽど、精神的な面だけでなく物理的にも休息を取れるようになった。思うように身体が動かない時の自分を許せるようにもなった。今も学び中だけれど、あらゆる場合において力を抜くことを覚えた。

また生きていると時にあまりに理不尽な目に遭うことがある。そんな時"自分で全てどうにかする・報復するのではなく、相手のためにも祈り、後のことは神様に委ねる"ようになった。

これらは所謂気の持ちようという程度のことではなく、神様を信じているので本当に肩の荷を委ねられるという、以前には携えていなかった生き方。そうすると心の余裕が出来る。

頑張りが報われない・結果が良くない時に、反省はしても自分を強く責め続けたり否定したりすることが無くなった。頑張り方や向きを見直しながら、神様が創ってくれた自分の最善が成ることを願うようになった。理不尽や誤解に遭う時も、神様がちゃんと見てくれているという安心感を持つようになった。

そんな風に平安を感じられない時は神様の愛の的から心の目の焦点が外れているから、祈りや賛美、聖書を読むことに益々集中するようにしてる。そうするとまた平安が戻ってくる。

とはいえあまりに酷な状況に陥ったり解決困難な問題に直面したりすると「なぜ?」「どうしたら良いの?」と思うことは未だよくある。

荒んだ家庭環境の他にも、学内虐め、職場内虐め、根も葉もない噂、失業、裏切り、経済的困窮、ストーカー被害、濡れ衣被されるようなこと、ここにはとても記せないようなあれこれ、、

問題って結構連鎖するのだよね。

例えば

家庭環境が良くない→ 人間の土台が脆く生きるだけでハードモード・しっかり稼げる能力がつく前に実家から離れる→経済的に困窮しやすくなる(内訳には両親希望での進学により借りた奨学金の支払いも有り)→治安があまりよくない場所に安く住む&逃げ場所や支援が得られないので何か問題が起きてもすぐに解決出来ない・ブラックな仕事も直ぐに辞められない→更なる問題も発生しやすく三重苦、四重苦... 周りには事情を理解されにくく蔑まれやすくもなる。

等といった様に。実際には全っっ然こんなもんじゃないぜっ。「もっと賢く器用だったらマシな生き方も出来る」のは間違いなくそうなのだけど、若き時代は殊更にそれが出来る人ばかりじゃないのだ。

でも不思議なほど、どんな目に遭っても「やっぱり神様は居ない」等とはもう絶対に思わなかった。何があっても神様は存在し私を愛してくれているという信仰が、今日まで10年私の中にあった。「もっと強い信仰を与えて下さい」と祈りながら、"信仰は与えられているもの"だということが、試練の時にこそよくわかると感じる。

またその試練が降り掛かったことに納得・理解さえ出来なくとも、神様に祈り信頼するなら、時間はかかっても必ず何らかの助け船や突破口・アイデアが与えられる。良い未来と更に信仰が強められることに必ず繋がる。私の場合はそうだった。

信仰って、人生上の問題が全くのゼロになったり、何の行動もせずに自分の願いが丸ごと叶ったり、というのを信じることじゃないと思う。自分の祈りが聞かれてることは信じてるけど、それは御心に適う行いありきで、願いが叶えられるかも御心に合う願いかによる。

“あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。”

‭‭- ヨハネによる福音書‬ ‭15:7‬ ‭

私にとって信仰とは、問題が起きても/自分の願いが考えていた通りには叶わなくても、尚神様こそ正しい・神様の導きがベストであると信じられるほどのもの。もはや、生きる全て。

それがあるから、近年は益々肩肘張って生きなくなった。

試練の最中も人事を尽くしながら、気長に待てる。悪魔が支配している世は何かと囃し立ててくるけど、マイペースを貫ける。自分の計画や理想が叶わないなら、もっと良い神様の計画があるのだと本気で思える。

だって、神様は愛だから‼︎

それでもたまには疲れ果てちゃうし、投げ出したくもなる。怒ることも悲しいことも悩むこともある。長らくずっと精神疾患だって抱えてる。でも{神様の傘の下で休む}ということが今は出来る。その度新たな力を与えられる。

究極なんらかの形で自分の命が絶えることになるとしても、それもただ神様の御心が成るようにと思える。天国が楽しみ!という希望はどんな状況に置かれていても常にある。

あぁ〜っもう、信仰生活が素晴らし過ぎてタイピングする指が止まらない。笑 信仰が無ければ私の人生とっくに終わってたか、今頃闇の中途方に暮れていたと思うよ。

信仰があるから今幸せだよ。信仰があるから(喧嘩は超〜するけど)良い結婚生活を送れてるよ。信仰があるから私の人生は想像以上に良いものに変えられてるよ〜〜。

だから私は神様の愛、信仰の素晴らしさを体現し伝えるために自分の命を使いたい。仕事も文章も何もかも、全部そこに繋がって欲しい。

この文章、、側から見た時に狂気に感じられるのかもしれないなぁとも思いつつ、実体験として、本音として投稿します。

“聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。”

‭‭- ローマ人への手紙‬ ‭10:11‬ ‭
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”

‭‭- マタイによる福音書‬ ‭11:28‬ ‭

※文章には筆者の個人的解釈が含まれます。

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