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15歳で亡くなった兄の命日。兄の親友は救急救命士になった。私はクリスチャンになり、今じゃ倍生きた。

4月8日、15で亡くなった兄の命日。倍生きちゃった。でも記憶の中の兄は未だ歳下とは思えないなぁ。

思い出は美化されるとはいえ、8歳から病で死と向き合い続けてきた人の目線と言葉は違ったよ。

新年のクラス替えで仲良しの友達が一人も居なかったらどうしようかと悩んでた私に、

「そんなことで悩めて良いよな〜、こっちは生きるか死ぬかなのにさっ。」

と、カラッと笑って返した姿が目に浮かぶ。

未だそんな程度のことで一喜一憂するような私です。

兄が亡くなった日は次の日からの生活が全く想像出来なかったけど、なんとか今日まで生きてきたよ。

ひとりで電車にも乗れなかった私が、海外で暮らしあちこち飛び回っているよ。

兄のことを考えると、残された方はあまりにも辛過ぎて、今でも時折涙が出る。生きてる間はずっと胸が痛むのだろうね。

同時に神さまが兄の短い生涯を通して周囲に伝えたかったことがあるように思う。与えられた命を立派に生き切った兄を誇りに思う。

人は短い人生を残念で可哀想だと言うものだけど、人生長さばかりが重要なわけでもない。

実はあの日からずっと天国でめちゃくちゃ楽しんでるのかもと想像してみたり。

兄の後に生まれるはずだった子は流産したと聞いた。

一体なぜ私のようなどうしようもないのが生まれることになり、生き残ってしまった?あ、どうしようもないからか?しかし私より兄が残った方が家族だけでなく世の中のためにもなっただろうよ。等と、幾度思ったか知れない。

こういう話をすると「ご両親はさぞ一人娘となったあなたを大切にしてきたことでしょう!」と返ってくることも多い。

けれど現実はそんなに綺麗なものではなく、寧ろ真逆。兄の死後、家の中ではあまりにも無残に扱われ続けてきた。

特に母の深い悲しみやあらゆる鬱憤を晴らすマトに、私はされた。攻撃的に。弱い存在にぶつけることでしか彼女に生き続ける術がなかったのだと思う。

長い闘病生活を寄り添った末に子を亡くした大人二人から溢れ出て止まらない苦しみをぶちまかされ続けるのは、並のことじゃない。当時私は11歳。18歳で実家を出てからもそれはあらゆる形で続いた。

私だって兄の死が悲しくて乗り越えようといつも必死だったのだから、トリプルパンチ以上だ。10代を機能不全家庭で過ごしたこと、それに付随した影響は、30代に突入しても未だ深い傷でありトラウマだ。

思春期に入った私は反抗期どころか酷く荒れ果てた。その証拠に実家の私の部屋の壁は2メートル位の穴が空いてる。(まだ直してなかったらね!)

愛する兄を亡くし、親に生を否定され続けたからこそ、自分が生きる意味や理由を必死に探し続けた。何か社会や人の役に立ちたくて、せめて良い人間になろうと決意をし続けてきた。でなければ自分に生きる価値はないと思ってた。

その内どんなに必死で生きようと、自分が無償の愛を持ち得ていないこと・善悪を見極める判断力の曖昧でご都合主義なこと・何かを動かす力があまりにも無いことがわかった。

だから世界史上一番の愛の実行者であるイエスキリストを、主として受け入れる信仰を持った。

"ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。” - コリント人への第二の手紙‬ ‭12:9‬ ‭

兄の死をきっかけに兄の親友は救急救命士を目指し、実際にその夢を叶えたと聞いた。

"一粒の麦は死んで大きな実を結ぶ"

戦争なんかは無い方が良いに決まってるし、人殺しは大反対だ。戦争や災害が無くても、寿命まで生きる人ばかりじゃない。沢山の人々が自殺するような世の中だ。

せめてもの祈りと行動をし続けたい。自分一人で出来ることが多くない・大きくないからこそ、強みを活かし合って協力して生きたい。

暗い世の中にも光がある。"闇は光に勝たなかった"。光になろう。光を増やしていこう。

生を与えられた私達はいつか死ぬ。生きてる間にどのような生き方をするのか。人生、そして死後の世界をどのように考えるのか。

今こそ誰もが、自分事として真剣に向き合うべき課題だと思う。

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