行動した先の世界が、行動の価値を決める
なにかを「やる」ことに、何の意味もないんじゃないか、と思う。
年末の事故の話になるんだけど、
事故の要因となった車がいたけど、そのまま通り過ぎていっていたから、その人はわからずにいた。
私はどこか諦めてた。「どうしようもない、なるようになっていく」って状況をコントロールしようとすることさえやめた。
そんなある日、保険会社がドライブレコーダーを解析してくれ、警察が探してくれて、相手が見つかった上に、相手も認めてくれて、保険料も支払ってくれることになった。という出来事があった。
この一連の出来事の中で、私は保険会社が解析してくれたデータを警察に持っていくのか、ものすごく悩んでいた。
「こんな犯人捜しをするようなことするなんて最低じゃないか、ヤな奴じゃないか」
「こんなことして何の意味があるんだろう」
「私はなぜ提出するのか、そこに時間も労力も使う意味があるのか」
「警察に提出しなければ、せっかく保険会社が解析してくれたのに申し訳ない」
「こんなことに必死になって、警察に、ねちっこい奴だな、と見られるだろうか」
そして、両親や車屋からは「警察に提出しても、相手が見つかる可能性も、認める可能性も限りなく低い。それでも自分がどうしたいかどうか」と言われた。
悩みに悩んだ、警察署に着いても、駐車場の車の中でも悩んでいた。笑
そしたら、ふっと軽くなる瞬間があった。
「どちらでもいい。やるもやらないも、本当にどっちでもいい。」
「やることに意味はないんじゃないか。
やる理由も、やらない理由も探さなくて良い。そこにあるのは"やる""やらない"のただの単純な選択肢。」
「私は犯人捜しをしたいわけでもない。
私は相手を恨んでいるわけでもない。
結果を期待しない。結果を見つけようとしてくていい。
提出後、どんな流れになったっていい。
そもそも行動=結果じゃない、結果はここが終着点だと決めたところが結果になる。」
「提出する私を最低だと決めつけているのも自分自身。
そうジャッチしているのも私自身。じゃあ提出しなければ私は女神なのか?最高な人なのか?」
一気に思い込みも、不安も、なくなった。
それでも「やる」という選択肢を選んだ理由は、自分の経験になると思ったから。「初めての出来事だから、自分の経験値upのためにやってみよう。もしかしたら今後役に立つのかもしれない」、それが最終の決断だった。
「行動する」ことが、正しいとか、そうするべきだ、って思うときがある。
私は、めちゃくちゃ「行動派」。
でも、行動することに何の意味もないんだと思う。行動した先の出来事を自分がどう捉えるか、ただそれだけ。
「行動して良かった」「行動しなければよかった」、そんな判断を下すのは自分自身の心。
一歩踏み出すのって、不安と恐怖のかたまりだけど、それは初めの一歩は、何かの始まりでしかない。
大切なのは、踏み出した先の世界をどう生きるか。
例えば、6年前オーストラリアへワーホリに行くときの初めの一歩の踏み出しは不安と恐怖でいっぱいだった。だけど、その踏み出した先に、オーストラリアで生きていく素晴らしい世界が続いていた。
今回、警察署に提出するという行動の後、私からすると、良い結果、ありがたい結果になった。「やって良かった」と思うのは、その結果が良かった今だからこそなのかもしれない。
そして両親や車屋が、「そんなことあるんや!」と驚愕している反応を見て、やってよかったと思う。だって誰かの思い込みや概念を覆すことができたから。
行動した先の世界が、きっとその行動の価値を決める。
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もし今、行動することに悩んでいるとしたら、
行動することに、どんな意味付けをしていますか?
行動=結果だと思い込んでいませんか?
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本来の自分に戻っていく〈自由になっていくコーチングプログラム〉
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