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物理の観測・人間の観照・神の観照・メタ認知の極限(純粋な認知)

こんにちは、領です。

いろいろ書いていたら22枚になりました。

『Newton』やYoutube『Takumi量子論』を参考にしています。
(『Takumi量子論』のLine登録をしたのですが・・・私に拒否感が生じました。でも、一般に公開されている動画の内容は好きです。)

今回の記事で、私が書く「全ては自分」という世界観のイメージを共有したり、否定することも含めて何か伝われば良いなと思います(*^-^*)

4ページ中頃まで、量子力学について書いています。やっぱり、「私とは何か?」と問うとき避けては通れないと思います。飛ばして読んでも大丈夫です。
基本的に専門家ではないので素人の考えが書かれています。今回は、「粒子と波の二重性」と「重ね合わせ」についてです。

量子テレポーテーションは、いまいち細かい疑問が残るので保留です。そもそも「全ては自分」ということで思考するので自分の連続性は問いません。量子テレポーテーションを使わなくても、既に日常が不連続な存在かもしれません。
ただ何となく、私自身は量子テレポーテーションは嫌です(^_^;)
「位置Aの自分の量子状態が壊れる、位置Bに再構成する」・・・怖すぎです。
「全ては自分」で割り切れないです。

「自分が滅する⇒全知・原初の認知」という自分の経験から、いろいろ考察します。

No5.補足↓
最初の囲みは、特に分かりにくいです(;^^)ヘ..
観測が現象を確定するのではなく、どんな現象にも(粒子でも波でも)、常に観測が在るという意味です。現象の可能な全パターン(粒子でも波でも)が「今」存在しそこには必ず観測が存在する。
人間が観照を有するのではなく、観照が人間を観ているから人間が在ると言う意味です。
観測と観照は同一のもので、人間を含めた現象全てを観ている。そのことによって現象は、「無」ではなく「有」として顕われる。

No.15↓補足
「全てが重なりあって打ち消し合い、何も重ね合わされていない」
訂正↓
「全てが重なりあって打ち消し合い、「個人の自分~世界」という情報が、重なっていない」

読んでくれた方、ありがとうございます(*^-^*)

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