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桐野夏生『燕は戻ってこない』(毎日読書メモ(460))

桐野夏生『燕は戻ってこない』(集英社)を読んだ。テーマは代理母(サロゲート・マザー)。
日本国内では代理出産は認められていない。法的な規制はないが、社団法人 日本産科婦人科学会の会告(平成15年)に、「生殖補助医療への関与、また代理出産への斡旋を行ってはならない」という文言があり、代理出産を行うことは出来ない。妻の子宮を摘出してしまっていたり、不育症だったり、夫婦間の子どもを妻が出産できない場合、海外で代理母に依頼して、夫婦の精子・卵子を受精させたものを着床してもらって、現地で出産してもらう、ということは可能で、検索すると、斡旋をしている業者のサイトにヒットする。
高田延彦・向井亜紀夫妻が、アメリカで、夫妻の体外受精による胚をアメリカ人女性に移植して出産してもらい、その子を高田夫妻の実子として出生届を提出して、最高裁まで争ったが不受理となった(母親はあくまでも出産した人、という解釈)、という事例は今でも記憶に新しい。

という程度の知識で読み始めた。

最初は、代理母となるリキの生活が描かれる。桐野夏生がよく描く、社会の底辺的な生活。しかし、著者インタビューでそれでもリキは底辺ではない、と言っていてはっとする。確かに、かつかつの生活で先の見通しはないが、ローン地獄とかにもなっていないし、奨学金の返済などもない。北海道東部の小さい町で育ち、地元の短大を出て、介護施設で2年半働き、必死で200万円貯めて、それを使って東京に出た。一旦出てしまったらもう帰省するお金すらない、手取り14万円の病院受付の仕事。コンビニは高いから買い物は滅多にしない、コンビニで買い物をすることが贅沢。スタバなんて論外。同僚のテルは、四大を出ているが、親が生活費の補填分まで奨学金を借りてしまって、それを自分で返済しているのでもっと悲惨。ダブルワークで風俗の仕事をしているが、それでもかつかつ、更にたまに生活力のない彼氏がふらっと現れて、それに貢いでしまう。それでもテルも踏み倒そうとはしていない。派遣の仕事なのでボーナスもないし、何年かで雇い止めになる。
「腹の底から、金と安心が欲しい」
出会いもない。結婚のあてもない。どん詰まりに見えるが、これは底辺ではない、と著者が言いきっていることに、うそ寒さを感じる。

テルが見つけてきた、卵子提供エッグドナーの仕事、コーディネーターのところに話を聞きに行ったら、代理母にならないか、勧誘される。
エッグドナーは数十万にしかならない(しかも国内で採取出来ないので海外に数週間行かなくてはならないので仕事の継続が困難)が、出産を経験したことのある女性なら代理母になれるという。出産はしていないが妊娠して中絶したことのあるリキは拡大解釈でできなくもない。依頼は、妻がもう排卵しなくなってしまった夫婦の子どもを、夫の精子を自分の胎内に着床させて出産する(厳密には代理母ではなくサロゲート・マザー)というもので、通常は海外で外国人女性に依頼することになるところを国内で日本人に産んでもらいたい、という依頼。そして、リキの顔がなんとなく、妻の顔立ちに似ているということで、コーディネーターから強く勧められる。
逡巡。何回も断わろうとするが、そのたびに、代理出産することで得られる巨額の謝礼が脳内にちらつく。生涯働かず食べていけるまでの額ではないが、当面何も困らない、しかも出産までの間の生活も保障される。

依頼者の夫婦の事情も緻密に描かれる。遺伝子の力を強く信じ、自分の遺伝子を残したいと強く望む夫。不妊治療の果てに、もう排卵しないので自分の子は望めない、と医者に診断された妻。それぞれにキャリアと名声を持ち、夫の母親の資産で、金に糸目をつけず不妊治療をして、それがかなわなかったら今度は代理母。夫とその母の関係性を疎ましく思い、押し切られるように代理母出産に乗るが、気持ちが納得できていない妻。
445ページある分厚い本だが、登場人物はきわめて少ない。リキ、テル、依頼人の草桶夫妻とその母、コーディネーター、草桶妻の友人のりりこ。あとはリキが自暴自棄になって、代理母の手付金で会ってみた男性風俗のダイキと、やはり草桶夫妻から貰ったお金でようやく帰省したときに会った昔の男、それだけ。
だから、それぞれの主張がみっちりと描かれる。読み終わって面白いと思ったのは、この小説には悪人が出てこないじゃん、ということだ。みんなそれぞれに幸せになりたいだけで、そのために他者を利用して、自分にないものを補おうとしている。それぞれの欲望はささやかなようで歪で、その望みをかなえることは、自分も他者も幸福にしていないじゃん、という風に見える。
とにかく、主人公リキが終始ぶれまくり。「腹の底から、金と安心が欲しい」という望みのうち、金の方が目の前に提示されても、それは安心にはなっていない、ということが手に取るように感じられる。リキ自身に、安心というのがどういうことなのかわからないのだから、行き先がないまま、妊娠し、出産する。出産にあたり、自分の実子として出生届を出すため、草桶夫妻は離婚し、リキが草桶と入籍する。このくだりはちょっと、高瀬隼子『犬のかたちをしているもの』を思い出させた(主人公の彼氏が、別の女性を妊娠させてしまい、その人は子どもを育てる気はないが、中絶はしたくないので、一旦入籍して子どもを産んで、実子とした後離婚して子どもは主人公にあげる、と言うのだ)。
子どもを産んだら離婚して、もう二度と子どもとは会わない、という念書を書いて、立ち去るよう言われたリキ。産後うつみたいになって、悶々とするリキに、りりこが放ったひとことが、リキの行き先を決定する。ちょっとネタバレみたいになっちゃうが、わたしはそのリキの決意を読んで、こう思った。

最後に来て『東京島』になっちゃったよ!

ここで小説は終わるが、現実世界なら、何もかもがここからスタートじゃないか。リキは新たな東京島を目指して、きっと頑張れるだろう。

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