荒らしの果てと、その本懐
私は今日とて、いつものようにネットの海を漂流し、いづれ使うことも無いであろう情報の暴食に精を出す。
目を滑らせながら活字に溺れる。
さもありなんなニュース・トピックに辟易としていた所だった。
妙に、目を引く記事を見つけた。
そう、今回は引用記事である。
それも、ディープな。
私、筆者を知っている者にとっては自明の理だが、ここで初見に対して一応の自己紹介をさせて戴きたい。
人は私を荒らしと呼び、今ではそれを自認もして居る訳だが、そこのところの詳しい話は本著、アイ・アム・ア・トロールにて記載しているので気になる人は読むといい。
とにかく私は荒らしで、ここからは荒らしの話をするという事を頭に入れて頂きたい。
さて、引用元の文章から私との共通点や、推定される感情や衝動について語り出したい。
驚くべきことに、年齢や住んでいる間取り、家賃すらも私とダブっている。
荒らしという行為以外にも、佐藤(仮)との共通点は多そうだ。
思い返せば6年前、本当の本当に衝動でしかなかった私の荒らしとしての始まり方も、こんな風だったと記憶している。
起床なんてものは、ありえないほどの睡魔のせいで太陽の光がすっかり落ちたころでないと起きられなかったし、だいたい一日一食で、いつも300円未満の食事を買うか、自炊するかの毎日。
ゲームや散歩なんかも単なる現実逃避で、自分の現状を一秒でも忘れたかったから、誰かの作った何かを消費することで自我を消すことで順応させる毎日だった。
当時の私はノートPCしか持っていなかったので、ゲームと言ってもフリーで遊べる…言うなれば”本物のゲーム”はろくに動かせないようなスペックだったので、”簡易的なゲーム”しか遊べなかったのだ。
ゲームをしても没入できず、操作性が低いので鬱屈が溜まるばかり、気も晴れないし、イライラは増す一方だった。
そんな状況でも人間は人間とのコミュニケーションを求める。
コミュニケーションが原因で心を病んでいたくせに、愚かなモノだとは思うけれど、それが当時の私に残された人間らしさの残滓だったからだ。
佐藤(仮)は私とは違い、一人の人間に対していわゆる”粘着荒らし”をしていた様だ。それに、連投。
荒らしと言っても千差万別だ。興味の無い人にとっては一口に”荒らし”とカテゴリーしてしまえば単純だが、この記事ではそうはいかない。
重要なのは”個人”に対する荒らしか、”コンテンツ”に対する荒らしか、という点だ。この場ではV本人に対してか、あるいは配信内容、視聴者、その他の本人以外に対する誤った正義感か、である。
それともう一つ、悪感情に起因された”荒らし”であるか否か。
ここで仮定する。佐藤(仮)はコミュニケーションを取りたかったのか、否か。
人間というものは単純で、他人にされて残る影響というのは、実は負の感情が起因になっているのが大半なんじゃないだろうか。
佐藤(仮)の生い立ちについては後述されるが、彼の人生もまた否定的な言葉の影響によってコミュニケーションを学習した人間の一人だと私は思う。
両親から、環境から、社会から。必要とされないどころか否定される幼少期であったなら、その精神構造に”否定”というコミュニケーションの手段が奥底に刻まれていて、人との関わりを渇望する中で、否定、嫌がらせという方法が無意識に発露していった。
それを経て、敵として認知される→歪んだ自己の存在への肯定。
という式が佐藤(仮)の中で無意識的に出来上がったのではないだろうか。
さて、仏壇という事は日蓮系のカルト宗教の家庭に生まれたのだろう。
子供を6人も産んでいるのは何か両親に対する偏見の目を向けたくなってしまうし、実際そうなのだろう。
だが、カルト宗教に属する人でも割とまともな人間も存在する。なまじ経典があり表向きの綺麗な教義もある程度は存在するからだ。
しかし、佐藤(仮)の母はそうではなかったようだ。
引用した文には「人格否定で自己肯定感が育てられなかった」という記載があるが、私はそうは思わない。
何故なら人格否定は、”否定された自分”という存在が肯定される事に他ならないのであり、自己肯定を求める故に、幼少期の人格形成の中に否定された自分という存在が肉親により肯定されている。という認識を得るのだ。
まさにそれはヤマアラシのジレンマであり、佐藤(仮)の中で狂った計算式が出す答えは、自己肯定感を得たい→過去に否定された自分こそが自己→その自己を肯定する=自己否定という状態に陥っているため、他人に否定してもらう事でしか自己を認識、肯定できない状況になってしまっていると推察できる。
私は荒らしを悪だとは思わない。
傷付く人間や、誹謗中傷に対して裁判をする人間が正義だとは思わない。
しかし、いつも我々が悪役である。それは勿論、する必要のないコミュニケーションで実害を負わせているからであり、社会正義から見れば10割が我々の敵になるだろう。
家庭環境、精神病、障害。
僕が荒らしを始めたのはこれこれこういう理由で……。
そんなものは後付けに過ぎない。
悪とされたから、同情を誘うつもりであるのならば、そんなものは必要ない。
私たちはコミュニケーションが下手糞だ。ありえないくらいに。
人と関われば必ず嫌われ、一定の距離を保つことでしか人と関われないし、永遠に親しくはなれない生き物だ。
諦めてそういう人生を歩むのもいいが、迷惑だろうと、なんだろうとも。
私達にはその方法しか、人と関わるすべを持たない道化なのだ。
ならば最後まで道化らしく果てるか?
これは完全に私の独り言なのだが、企業所属のVに対して業務妨害レベルの荒らし行為や粘着連投をしている時点で佐藤(仮)がこうなるのは分かり切っていた事だ。
それでもやめられなかった。
いつの間にかコミュニケーションという荒らしの手段が、目的へ変貌してしまって、荒らしこそが目的……生きがいだったのだろう。
生きがいを辞めるか、訴訟されるか。選んだのは前者だった。
ホント言うと、Tor通せばIPは割れないし、爆破予告したって警察は身元特定できなかったレベルのツールで連投でもなんでもやれば訴訟なんてされなかったのだが、私個人はそういう自分は安全圏で叩くような、そんな下劣な人間性が大変嫌いだ。
その点、佐藤(仮)はノーガードで戦い抜いた荒らしの中の荒らしであり、我々にとっては英傑と呼んでもいいだろう。
アカウントだって捨てアドを使っても何分間もかかるし、一度モデレーターにブロックされれば、そのアカウントではもうコメントできない。
明らかに費用対効果が悪すぎる。
しかしやり続けた、否定された自分を見つけるために。
そこにある種の信仰を感じたのは、私だけではないはずだと願いたい。
彼は訴訟を経てなお、ネットの海でコミュニケーションを取ろうと必死にもがいている。
今度は荒らし以外の方法で……。
彼は自己を肯定するコミュニケーション手段を得られるのだろうか?
荒らしという経験を経て、何を得られたのだろうか?
それは当人にしか分からないし、私が語るべきではないだろう。
昨今では誹謗中傷に対する開示請求や民事裁判が増えてきている。
社会悪というイメージで固定された我々にも、矜持と、飢えを持っている。
もし、ここまで読んでくれた貴方が荒らしに遭遇した時は、どうかコミュニケーションをしてやって欲しい。
相談に乗るのも良し、雑談をするのも悪くないだろう。
我々は人との接点を求めている。
ひどく不器用で鋭利なそれは
今では 荒らし と呼ばれている。
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