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日本女性の生きづらさはどこからきているのか


前々回、選択的夫婦別姓制度について記事を書きました。

(毎度のことながらスキをつけて頂いた方々に感謝です🙇ありがとうございます)

そこでちょっと書き足りないことが出てきたので、今回はその補足的な記事を投稿します。

タイトルからして壮大なものとなってしまいましたが、茶🍵でも飲みながら気楽に読んで頂ければと思います。


最初に書いてしまうと、私は女性として生まれて性自認も女性ではありますが、

ありがたいことに、これまで女性だからという理由で特に苦労したことはありません。

もちろん、女性として嫌な経験がなかったわけではありませんが(特に学生時代)

一般的な生活を送っている人に比べたら、元ひきこもりで就労期間が短いことや、

身長がシャレにならないくらい高いということもあって、セクハラなどの被害にあう機会が少なかったと感じています。

なので、過去から今現在までさまざまな形のジェンダー差別に苦しむ方に完全には寄り添えないかもしれませんが、

ミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)となることなく、なるべく性別関係なく読んで頂いた方の癒しや気づきの記事となるよう書いていきたいと思います。



さて、

タイトルの“日本女性の生きづらさはどこからきているのか”を早速言ってしまうと、


“女性は弱い生き物だから、男性に守ってもらわないと生きていけない”という古い固定観念が、いまだに法制度から人々の意識にまで根強く存在している


からだ、と感じています。

そして、何よりも無視してはならないのは、この固定観念の裏には、

“男性は強くあらねばならない”

といった、昔から続く呪い・・のような観念が対として存在している、ということです。

前々回の記事でも触れましたが、そもそも日本女性の人権が制度的に十分に認められていない現状があります。

先進国で夫婦同姓を義務付けているのは日本だけで、また、中絶する際に配偶者の同意が原則必要と定めている国も、日本以外は台湾を除くと中東やアフリカなどの女性の人権があまり認められていない国だけです。

男女共同参画社会が叫ばれて久しいですが、未だに日本は女性の人権が発展途上国並みに低いという側面があります。

日本では、女性に結婚後自らの姓を選ぶ権利や、妊娠した際子供を産むか産まないか決める権利が、法律レベルで保障されていないんですね。

つまり、明治時代に形作られた家父長制の仕組みが未だに受け継がれ、

“女性に意思決定権はなく、誰かに所有される生き物である”という定義が、未だに残った状態になってしまっています。



引用するまでもないかもしれませんが、日本は“働きすぎ”の国です。

令和5年度版の男女共同参画白書によると、日本の労働時間は諸外国と比較して男女ともに高い水準となっています。

男女共同参画白書 令和5年版 生活時間の国際比較より引用

それでいて、家事育児や介護などの無償労働時間は女性に多く偏っている現状があります。

男女共同参画白書 令和5年版 生活時間の国際比較より引用
男女共同参画白書 令和2年版 生活時間の国際比較より引用

白書にも、

我が国の有償労働時間の女性の分担割合は37.5%と11か国中で最も小さい一方で、無償労働時間の女性の分担割合は84.6%と11か国中で最も大きく、諸外国と比較しても、男女間での有償労働時間と無償労働時間の分担のバランスが極端であることがうかがえる。

男女共同参画白書 令和5年版 生活時間の国際比較より引用

とあります。

また、内閣府が発表した調査で、20歳~69歳の男女に聞いた「積極的に結婚したいと思わない理由」のうち、

『名字・姓が変わるのが嫌・面倒だから』の次に男女差があるのが、『仕事・家事・育児・介護を背負うことになるから』となっています。

内閣府ホーム  男女共同参画白書 令和4年版 第2節 結婚と家族を取り巻く状況より引用

特に40歳~69歳では、女性の49.4%に比べて男性の25.9%と、ご紹介したジェンダー格差がそのまま反映された形になっています。

と同時に、『結婚生活を送る経済力がない・仕事が不安定だから』と答えた割合は、女性の31.4%に比べて男性が40.9%と

一家の家計は主に男性が働いて担うべき

といった価値観が依然として存在することがわかります。




日本政府は、2003年に“2020年までに指導的地位(管理職)の女性を少なくとも30%まで引き上げる”という目標を掲げました。

しかし、帝国データバンクの「女性登用に対する企業の意識調査」によると、2020年の女性管理職の割合は平均7.8%となっています。

帝国データバンクは「女性登用に対する企業の意識調査」を実施。その結果、企業の女性従業員の割合は増えているものの、管理職(課長相当職以上)に就く女性の割合は平均7.8%であることがわかった。

女性管理職比率データ2020年最新版 女性が活躍する社会づくりに必要な対策とはより引用


女性の権利を主張すると、

男性は十分負担を強いられている
女性の権利を主張するならば、女性も男性並みに仕事場で責任を担うべきだ

と反発する人たちがいます。

その主張は、ご紹介した、“男性は強くあらねばならない”という古くから続く価値観に縛られているように見受けられます。

実際、管理職に就くことを望んでいない女性も一定数存在するというデータもあり、一部の人にとっては

女性は権利ばかり主張してやることをしていない

という印象につながっているように感じます。

一方でデータを冷静に読み解いていくと、“女性が”“男性が”という性別で単純に区別する以前の問題が存在していることがわかります。

調査機関「しゅふJOB総研」の調査では、管理職を希望する女性は26.5%だったのに対し、

“もし結婚や出産をしても家庭の制約がなく、100%仕事のために時間を使うことができるとしたら管理職になることを希望するか”と尋ねたところ、26.5%から64.4%に増加したとあります。

つまり、

女性の権利を主張するならば、女性も男性並みに苦労・・したらどうか

という主張に対しては、

いや、そもそも家事育児や介護を女性が過剰に担わされている社会構造が問題なんだよ。ただでさえ女性は私生活において心身ともに削られている状況なのに、仕事でも負担の大きい管理職になりたい女性なんてそんなにいるわけないじゃんか。

という反論が成り立ちます。


男性の育児休業取得率は今でこそ(2022年)17%となっていますが、ほんの数年前まで一桁代という驚くべき数字でした。

厚労省の実施した「令和4年就業構造基本調査」によると、介護離職者のうち女性の割合は全体の8割となっています。

共働き世帯の数が専業主婦世帯数をとっくに追い抜いたのに、未だに高度経済成長期に作られた配偶者控除や配偶者手当により女性の労働が制限されてしまっています。

有配偶女性パートタイム労働者の21.0%は、税制、社会保障制度、配偶者の勤務先で支給される「配偶者手当」などを意識し、その年収を一定額以下に抑えるために就労時間を調整する「就業調整」を行っています。


配偶者手当の在り方 の検討に関し考慮すべき事項 厚生労働省より引用


未だに日本社会において、

“男性は妻や子どもを守るために一家の大黒柱となって稼ぐ存在”

として、また、

“女性は男性に経済的に守られるかわりに、家事育児や介護を負担する存在”

として認識され、なおかつその古くなったライフスタイルが社会制度や法律によって助長・再生産されている現状があります。



ここまで柄にも合わず(?)ちょっと堅苦しい展開をしてきましたが、ここからは個人的な意見を書きます。


私は過去記事で、以下のように書きました。

今の時代、みんながみんな疲れていて、みんながみんな傷ついていて、みんながみんな消耗していて、そのしわ寄せが、社会的弱者へと及んでいるのではないか。

祖父母の暮らしから現代社会に存在する生きづらさの正体を考える

みんな疲れていて、みんな余裕がない。だから、癒しを求めている。今の社会全体の雰囲気として、性別問わず誰もが“癒し”や“母性”を求めているのではないか。そして、その受け皿の一部となっているのが、女性なのではないか。

祖父母の暮らしから現代社会に存在する生きづらさの正体を考える


私たちがなんとなく感じている生きづらさを読み解いていくと、昔から受け継がれた価値観が未だに存在し、なおかつ権威性を帯びたままでいることが問題に思えます。

つまり、

男性には“男たるもの”という男性に向けられた差別があり、
女性には“女性なんだから”という女性に向けられた差別があり、

そんな異性・同性関係なく各方面から向けられた差別が、一人ひとりの中にミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)となって複雑に絡み合いながら内在しているように感じます。

その見えない差別に絶えず晒されていることが、性別関係なく私たち一人ひとりの生きづらさを生み出す要因となっているのではないでしょうか。

(もっと踏み込んで言うと、男性には“性を消費する側”としての罪悪感や自己嫌悪が、女性には“求められる性”を提供できないという劣等感や自責感が、根深く混在しているように感じます)




なぜ、日本は未だにこういった生きづらさが存在しているのか?

私が考えるに、その要因の一つとして、

“そういうものだから”
“親がそうしてきたから”
“みんなそうしてるから”

といった形で多くの人がやり過ごしてきた結果、それが今現在にも引き継がれてきてしまったのではないかということです。

多少の違和感があったとしても、それに対して疑問を持たないか、持ったとしても何か特別な行動を起こそうと思わないことこそが問題なのではないかと感じます。

何より、他でもない私自身が、今までずっとそういったスタンスで生きてきました。

今の社会においては、実際に自分の身に起きた、当事者になった人たちだけが困難な状況に追いやられ、それ以外の人たちは

自分には関係ない
毎日の生活で精一杯で他の人のことを考える余裕なんかない

といった具合に、他者の痛みを自分ごととしてとらえることが難しい状況に置かれています。

ただ、程度の差はあれど、生きづらさはどんな人の中にも存在しています。

同じ日本という国に生まれ生活を共にしている以上、名前も性格も知らない、会ったこともない、見たこともない存在であったとしても、共に生きる人たち・・・・・・・・として確実に存在しています。

そこで大事になってくるのが、みんなで考える、ということです。

よく、大人の条件とは何かと問われることがありますが、もしも大人の条件があるとしたら、

税金を納めているとか、資産がどれくらいとか、地位があるとか云々の前に、

社会の一員として、自分に関係のない生きづらさだとしても、どこから発生するのか考える想像力を持つことなのではないかと感じます。

たとえ自分の身に起こっていないことだとしても、どうしたらみんなが幸せになれるのか考えていくこと、

この想像力と思考力を持ち合わせていることこそが大人の条件であり、個々の生きづらさを解決する一つの糸口になるのではないかと思っています。




毎度のことながら最後は熱く語ってしまいました。

この記事が少しでも何かのきっかけになりましたら幸いです🍀

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




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