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「必要なもの」を渡すには。

こんにちは。
今年もコーヒーの日がやってきました☺︎

そんな今週末、10月3日に開催する

コーチングセッションのようなコーヒーのワークショップ

世のコーヒーワークショップと少しだけ毛色のちがうイベントの開催にあたり、着地点を決めるまでの記録を兼ねて、どう考えたかを書いておきます。

よければお付き合いください☺︎

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前提に切り込む

世の中にはいろんなコーヒーの教室やワークショップがありますが、
自分が主催にまわるとき、

「自分だからこうなった」というポイントを作っておかないといけない
と考えています。


特定の淹れ方を教える。歴史を教える。レシピを教える。

でも、相手が知りたいことから始めるワークショップはあまり聞いたことがありません。

これは、学びにくる人が「自分が何を学びたいか知っている」という前提があるからだとおもうのですが、私自身は、ここについて

「本当にそうかな?」とおもっているんですね。

これは、ここ1年ほどで、コーヒーを軸にした体験の提供を重ねるにつれて、わかったこと。


今回のワークショップの説明文を引用します。


(コーヒーショップにおける)
難しい用語をそのまま使ったメニュー、
質問をしにくい空気、
価値が伝わっていないから「高い」と感じてしまいがちな価格。

そういった体験を作り出してしまうコミュニケーションの齟齬をどう改善していくのか。

体験の参加者さんの声をもとに、今回初めて《双方向コミュニケーション型のワークショップ》をひらくことにしました。

みんなが知りたいのは「自分が知りたいこと(が何かを知ること)」ではないか。という仮説を立てたんです。


多くのワークショップは相手が「主体的に」学びに来ているものの、実際の講座や教室の時間のなかでのリードは主催者にあります。

(これを仮に「能動的に参加して受動的に学ぶ状態」とします)

参加を決める前に「何をするか」の合意をとっているので、来る人は学ぶ内容を目掛けて来ている。

《何》を学びたいのか自覚している人はそれでいいけれど、

コーヒーショップ「分解」ツアーや、小さなポップアップイベント間借り出店などをとおして、

そこまではっきりそれがない「(コーヒーに)興味はあるけど、目的地が決まらない」ゾーンの人もいることが見えてきて、

そうした場合に、自分だからできる関わりはどんなものだろう?と考えました。

できることの中から、ちょうどいい距離感のアプローチとして

いろんな楽しみ方があることを知ってもらう

ことができるとおもいました。
というのは、私が

相手が伸びたい方向に伸びるサポートをする

というテーマを持っているからで、
こういうのがいいですよ、という提案は、相手の希望や事情があってのもの、という意識が強めだからというのもありますが

その距離感がちょうどいい、と感じる理由はもうひとつあります。



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「学び」 は 「与えられる」もの?


なんというか、現代のこの状況で自分が強く感じるのは
「人は教えてもらうことをあまり望んでいない」のではないか?
ということなんですね。

もう少しはっきりいえば、

他者からの「意見」や、オススメ(Recommend機能に代表される) に辟易としているのではないか。

確かにそれは自分の行動履歴から抽出された情報で、興味がある。

けれどもどこかで、自分の発想から脱したい、という欲求があるからイヤな既視感が拭えない、というような。

自分にもそういうことがあります。

しかし一方で、同じ「オススメ」でも、親しい友人からコレ(ぜったいハマるから)聞いてみてと送られてきたポッドキャストが面白すぎて夜も眠れない、ということがある。

もともとの自分をよく知っている人が「しめしめ」とおもって勧めてくれるそのコンテンツが刺さるのは、

まさにこれが自分の知りたかったことだ!

という "興味" を超えた興奮や、発見の喜び。

そういったものがあるからではないでしょうか。

だったら、もう最初から自分の興味をスタートにしちゃえ、というのが今回の自分の目論見でした。

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「学び」=「受け取るもの(教えてもらうもの)」

というだけではない側面があるのに、ないことにされているかのような「与えようとする学び」の多さ。

なんか、みんな「もっともっと "体を動かして" 知りたい」んじゃないか?という気がする。直観です。

口に出しては言わないけど、もっと「自分から」学びたい、と感じているんじゃないか。

学びの中身って、知ることでなく、できるようになることの嬉しさだとおもうんです。これはひとことで言って「変化」なんだとおもいます。


「与えられた学び」と、「自ら得た学び」の違いを考えるとき、ひとつ、《持続する興味》があるとおもいます。

身体的な感覚が強いのはこれがあるからです。自分の中からでてきた動機は強い。

実感を頼りにできること、
理屈に「だまされない」でいられるのは、説明ができなくても最終的に信じられる身体感覚があるからだとおもうんです。


そういう経緯があって、今回は

意見よりも視点を、知識よりも捉えかたを重視して、
必要なものを発見してもらえるような会になるといいな、とおもいました。

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(↑体験ページのスライド


自分の 「おいしい」 を、 ブラさない。


先述した「能動的に参加して、受動的に学ぶ」という構図でなく、
能動的に参加して、能動的に学ぶ。

「あなたが知りたいのはどんなことですか?」という問いからのスタート。

問いから始めることで、考える動線をつくりたいとおもいました。

その答えがみんなと違っても、みんなと同じでも、そこは焦点にならない。

みんなの答えはみんなの感覚として「そうなんだ」とフラットに受け止め、参考材料にとどめる。そのうえで、

自分自身はどうか、という焦点に注意を向けつづける。

知っている人はすぐにピンとくるとおもいますが、これはコーチングセッションの不文律です。

あくまで自分の感覚があり、経験があり、そのうえでその人の「おいしい」があり、そこからの「こうしたい」がある。

そこをもっと色濃くしていけるような取り組み。

その人自身が知りたいことを探ってもらう

ライブで抽出をして、感じたことをその場にひろげる、出してもらう。
その中には他の人の感覚があり、同時に自分の感覚も相手の考える材料になります。

求めるものが何かぼんやりとしかわからなくても、
話し始めてもらうことが大切で、それなら自分としては、感じたことを口に出せる場を提供することはできるとおもいました。

考えや感覚、希望を知ることができたら、より具体的に話ができます。


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バリスタが可能にするもの


バリスタとは、そもそもお店にとって、そしてお客さんにとって、いないといけない人なのでしょうか。

バリスタがいることで可能になることって何でしょう。

たとえばこんな場面をよく想像します。

お客さんがコーヒー屋さんで豆を買うとしますよね。
何を選んでいいかわからないとき、

◎知っているものを買う
◎苦手なものを避ける

というパターンが多いのではないでしょうか。

お店の人と、自己開示ができる関係であれば
「詳しいことはわからないんだけど、とりあえずーーしたい」
という話ができますが、

心理的なハードルがある状態だとむずかしいですよね。

バリスタがコワモテだったり、常連客らしい人とずっと喋っていて話すタイミングが掴めなかったり、どことなく上から目線に感じたり、あるいは店全体がスタイリッシュすぎて気後れしてしまったりと

いろんな要因がからんで、話ができない。する気になれない。

そう感じさせてしまうような「(お店としての)態度」はやっぱりとてももったいないとおもいます。


自分の好みを伝えることができないお客さんは、あたらしい選択肢を提供される機会を失うしかないのでしょうか。
それはお客さんだけの問題?
そうではないとおもいます。

酸味が苦手、もし、あらゆる酸味がその対象になるなら、いちばん酸味を感じにくいローストの豆をお渡しすればいい。

でも、本当にそうなの?
これが自分のスタートです。

あまりにもたくさんの方が口にする、ある意味刷り込み感すらある
「酸味が苦手」は不自然なくらいに同じ言葉、同じフレーズすぎない?
ここのロジックどうなってんの?

っておもってたんですね。笑


バリスタの関与できるポイントがあるとしたら、どんな点か?と考えたい。
できることがあってほしい、という希望のようなものでもあり、自分がそこにいる意味を知ってそこにいたい、という感じ。

別のnoteにも書いていますが、頭の中はこんな感じで進行していきました。

生産や技術が発展して、いろいろ変わってきたから、昔と同じじゃないから、その進歩の結果として、こういう素材(スペシャルティコーヒー)が出てきている。

質のいいものができるようになって、素材の個性を楽しんでもらいたいという流れができてきた。

深く焙煎するほど、コーヒーがチェリーだったときの特性は失われ、均一化されるため、より(作物としての)個性を残す浅い焙煎で提供する動きができた。


そういった流れができて間もないため、理由や背景がまだまだ知られていない状態で、特に日本で長く飲み続けられてきた深煎りのコーヒーの味わいを想定して、浅煎りを選んでしまい、

「思っていたのとちがう」という体験から、従来の深煎りのイメージである「苦味」との対比として「酸味(が目立つ浅煎りのコーヒー)が苦手」という結論になる


これはバリスタがフルーティーさ(甘味、酸味、香りなど)を「あたらしい楽しみかた」に昇華させてお伝えできていない、という見方もできるよね。


「酸味が苦手」をそのまま受け取って堀り下げないのであれば、これまでどおり、酸味の少ない深煎りの豆を提供し続ければいいのかもしれません。

では、どうして多くのお店には、酸味や甘味を前に出した「浅煎り」が置いてあるのでしょうか。

きっと、いろんな味わいや香りや風味を知ってもらいたい、と考えるからで、これまでと違った楽しみも提供していきたい、というお店の意志があるからで、

もっとはっきり言えば、

「思っていたのとちがう、というクレームをもらわない」

というのが最優先事項ならそれでもいいけど、そうではなくて、
ひとりの自分として、

もっともっとコーヒーって幅があって、奥ゆきもあって、世界中で多種多様なおもしろさがあって、その中で自分はこんなふうに興味をもって、なんか知らないうちにどんどん好きになって、今はコレがおもしろいっておもってるんだよ、っていうところで、伝えたいことってあったんじゃないの?

という。

だとしたら、やっぱり伝えることこそがバリスタの役割になるとおもうんです。

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お客さんは本当に酸っぱくないコーヒー「だけ」を求めているのか?
そして、それは、明日も明後日も変わらないのか?

自分は、そうではないとおもっているんですね。

いつでも求められているのは、その人が今知っているものより、もう少しだけいいモノ、うれしいもの、おもしろいものだとおもう。

おいしい以上の何かがあるから喜ばれると感じることは多いし、私は実際にそれを提供したいです。

そのためには常に情報や体験を仕入れて、自分の言葉で説明できる範囲を広げていくことが必要になります。

だからこそ、自分が楽しんで努力できるものを選んで提供しているし、

自分が選んだツール(コーヒーでも、料理でも、コーチングでも)
をつかって何かをするとき、相手に求められるものがあって、それを利用して自分を伸ばしていけるのは、とても幸せなことだと感じています。


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今回は具体的に「こういうことをしてほしい」という声をもとに企画を決めたわけですが、

今見えているものがあって、もっと必要な情報を得るために、詳しく観ていく段階、「おいしい以上の何か」を考えるときには、

コーヒーショップ時代の経験以上に、それ以前の海外での仕事やボランティア経験、動物病院時代の経験などがいろんな形で活きていると感じます。

何もしていなかった時期もあるし、他人から見たら意味をなさないような時間も含めて、これまでのあらゆる「実体験」から抽出されたヒントが役に立っている。

思い出せることが体験の強さだとおもうんです。

だからこそ、体験から汲み取る学びが好きだし、そういう機会をつくっていきたいとおもうのかもしれません。

今日は、「もっと相手に委ねたワークショップをしたい」と考えて、
コンセプトを決めた経緯を記録として書きました。

読んでいただきありがとうございます。

自分にできることを駆使して、たのしく遊んでもらうこと。
それが学びの手がかりとなるような時間にできたらうれしいです。

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フリーのバリスタ、調理師、コーチとして活動しています。

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