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ひとの顔色をうかがう。

こんにちは。

フリーのバリスタ / コーチ / 調理師をしています。

どこでどのように仕事をするにしても、人を相手にする以上、肝にあるのはコミュニケーションだと考えています。

今日はその中の「観る」という要素について、自分の経験から考えたことを書きます。

初めて会う方、よく知らない方と何かをいっしょにしないといけない機会もよくありますが、

そういうときに感じるのは、この「まだよく知らない状態」をたくさん経験してきたことがとても役に立っているな、ということです。

よく知らない状態、求められていることの詳細がまだわからないという状態でこそ、観るという部分が効果を発揮するからです。

観るってどんな意味なのか、改めて調べてみるとおもしろい記述がありました。

漢字の向かって左側の部分は、音と意味を表す「雚(カン)」という字。
「雚(カン)」の旧字体をひもとくと、「口」という字を横にふたつ並べ、その下に尾の短い鳥を意味する部首「隹(ふるとり)」が書かれています。
これは、二羽のコウノトリの姿。
コウノトリは神聖な鳥とされ、古代中国では鳥占いなどに使われていたといわれます。
右側は「見」という漢字。
横から見た人の形の上に大きな「目」を書き、人の目を強調して「みる」という行為を意味しています。
「観る」という字は、鳥占いで神の意向を察して「みる・みきわめる」こと、あるいは「揃えたものを見比べる・見比べて考える」ことを意味するようになりました。

英語だとobserveですが、こちらの語源は 対象に向かう意味をもつ接頭辞 obと 守る、保つといった意味の serve を合わせたもので「(何かを)守る、気がつく=観察」という解釈になったようです。



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話の受けとり手を引き受ける

誰かと話していて、

「なんでわかったの?」

と言われることがありますよね。
「言ってないのに」という意味で。

大人も子どもも、動物も外国人も、

本人がおもう以上に行動には情報が詰まっていて、信頼性が高いのはそういった非言語の情報だったりしますよね。

相手が取った行動から逆算して、その理由は?意図は?と紐解くプロセスを誰もが自然に経験するなかで感じとるものがあったり、相手の立場を想像したりもする。

多くの人がこれを無意識にやっているのが、自分が他者の目を気にして行動を決めているときですよね。

「ここでこれをしたらこう受けとられる」とか「こう思われる」という。

そういう意味で、他者の視点から想像するということはほとんどの人がやっているとおもうのですが、

コミュニケーションという言葉が使われるとき、どうしてこんなに《伝えるイメージ》が強くなったのかな、と疑問を感じることがあります。

たとえば書店で「コミュニケーション」とついた書籍のタイトルを眺めれば、伝える側に立ったものが聞く側に立ったものよりずいぶん目立つし、

動画視聴サイトでもプレゼンテーションや話術について学ぶコンテンツは、やっぱり聞く手法のそれより多いとおもいます。

話すという行為の先には受け取り手がいるけれど、その存在の薄さが気になって、どうしてなのかな、と考えてしまいます。

受けとるほうにも受けとる感性の発達は必要で、それが苦手なままでは、受けとるべきことが受けとれず、《コミュニケーション》は滞ってしまいます。

実際には、話すより聞くほうが得意な人もたくさんいるわけで、もっと言うと生粋の観察者 obserber みたいな人もいるのにな、と。

自分に合っているコミュニケーションの役割を意識して伸ばすほうがしあわせな人もいるんじゃないか、という疑問です。

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そういう疑問の裏側で思い出しているのは、やっぱり自身の体験で、それは言葉なしで何とかしないといけなかったたくさんの場面のこと。

自分はこの「ひとの顔色をうかがう」という部分を、わりと意識して使ってきたんだな、とおもうんです。

「人がなにを言っているかよく聴いて、見えていないことを想像したりする力をつけて将来はこういうふうに仕事をしよう」と考えていたわけではありません。

(そういう計画性を持っていたらよかったんですが)

そうせざるを得ない事情が先にあり、合わせて自分が変化するという順番で、具体的には、言葉が通じないとか、ききたくても訊けない環境。

そういう「注意深く」ならざるを得ない場面を経て、必要な情報を得るために、自分だけでまず変えられる部分が、「見る」から「観る」だったんだとおもいます。

言語を使わずにやりとりをして何かをなす経験を繰り返して、そこから学んでいなかったら、自分のコミュニケーションの形は今と違っていたかもしれません。


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動物を相手にする

以前、動物病院で看護師の仕事をしていた時期があります。
見習いで、預かりの動物のケアや診療の補助をしていました。

観察そのものが業務という職種はたくさんあるとおもいますが、自分の仕事もそのひとつだったとおもいます。

動物の様子をしっかり見ることを求められていて、これは様子が変わったときに変わる前の状態を獣医師に正確に伝えられることが必要になるため。

預かりの動物を見ている時間が長いのは、掃除や食事の世話にあたっているスタッフだからですね。

診察には、発現する症状には原因があると考える基本の流れがあり、実際、原因は特定できることがほとんどでしたから、起きていることには何かしらの理由があるものなんだな、とおもうようになりました。

「なぜこうなのか」の隣にはいつも「どうなったらいいのか」があり、どちらの疑問が先でも、その関係性ごと捉えられるようになると、

「なぜこうなんだろう」で終わらず、ではどうしたらいいのかと視点の切り替えができるようになっていく。

自分自身が動物と接する時間が長いということ以上に、

先生や先輩といった動物を相手にしてきた時間が長い人たちといっしょに過ごしその人たちが何を観て(処置を決めて)いるのか?を想像し、指導してもらったおかげで、

「(見えていることはさておき) 実際には何をしないといけないのか?

という問いを持てるようになったのかなとおもっています。

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外国で生活をする


もうひとつ、言葉が通じない場所で生活をしたことも大きかったです。

見知った文化圏から離れ、イチから生活を成り立たせるにはそれまでの自分とはまったく違うレベルの意思表示が必要でした。

周囲の人の自立度と比例して「自分はこうする(したい)」を示し、認め合うやりとりがコミュニケーションの基盤となるのはどこでも変わりませんが、当時の自分にはそれがなく、

日本では周りを見て判断していればよかったことを、初めて自分で考える必要に迫られ、

自分の意見を持っていない不自由さと心許なさは、そのまま生活の不便さと、心細さになりました。

言語レベルの問題もさることながら、意見の基礎となる疑問や考えを持っていないから伝えようがないんです。

同時にそれまで自分が「他人から何も言われないためだけ」にとっていた行動がいかに多かったのか気がつきました

1人の大人が、自分のことを自分で決めることが通常の環境では、生活するだけで大小あらゆる【あなたはどうするの】を問われつづける

だから【私はこうする。】が必要になります。
暫定でも答えを出すことが求められる。そのぶん撤回も多くなります。

だけどそれでも結論を出す。
もっと言うと結論を出す、という意志をもち、それを見せ続ける。

結論がなければ、自分の行動を決めることができず、他者と行動をともにすることもできません。

でも「みんなの意見」が自動的に「自分の意見」にすり替わることもない。

知らない世界を知るというのはこういうことだと、今でもおもうんです。
それまでの自分ではいられない状況を得ること。

相手に合わせていればトラブルが少なく、意見を言わずに流れに沿うことが素直とされる環境では使わずに済んだ部分が、こんなにも求められる。

その衝撃に比例して内面に起きた変化も大きかったんですね。

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そうして少しずつ意思を伝えることができるようになっていったものの、高度な(というか普通の)会話をする語彙がないので、

発話の大半は自分の意図が伝わったかどうか、相手と自分の解釈が合っているかどうかの《確認》に終始することになります。

しかし言葉が通じないことと意思が通じ合わないことはイコールではなく、ここで必要になるのが「ひとの顔色をうかがう」こと、観ることだったんです。

理解を助ける手段としての「観る」
意識してそれをつかうことで、 言葉に頼らない情報収集が発達していきました。

言語が堪能でないヨソモノの生活においては、相手の意図を理解する力のほうが圧倒的に有用で、逆に(そして極端に)言えばこういうやりとりができればさほど困らない。

それを理解すると、言語以上にルールや文化を知ろうとします。
目の前の人とのコミュニケーションに役立つ何かを探すようになる。

内容を理解できなくても、意図がわかればそれに対する自分の行動を決められるからですデコボコながらやりとりが成り立つんです。

「 I don't understand, but I got it」 わかんないけど、わかった。

こういうことは身近なところで多くありますよね。
「何を言いたいかはわからないけど、何をしたいのかはわかった」という。

相手が言っていることを理解するのでなく「何を求めているか」に先回りするような考えかたは、よみ間違えると危険ですが、苦渋の選択を迫られて自然と伸びていったところだとおもっています。

必要なものが足りていない状況では、あるものを使うしかない。
これは、自分がわかる範囲で捉え直すということですが、その基礎には動物病院での経験がありました。

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「この行動(症状)は何か」「必要なこと(処置)は何か」という2軸で考えていたこと、

(必要なことがわかるためには)
観ていることと、理解できたことの両方から攻めるんだ、という感覚をもっていたからです。


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真ん中の意思決定


これまで国内外の自分が望んだ場所で、有償無償のさまざまな仕事をしてきましたが、どんな現場でも、大事なのは必要なことがわかることで、重宝されるのは必要なことができる人でした。

当たり前のように聞こえるけれど、これはすごいことで、
「それをしなくても誰からも責められない」場面で「それができる」人というのは、やっぱり「観ている」人だとおもいます。

そういう人は、他の人よりももう少し、把握している「必要のディテール」が細かい。

誰かと向き合ったとき、言葉になってこないことをどのくらい想像するか。

これは、相手に媚びたり寄り添うという話ではなくて、
相手がどう感じるか想像することと、自分がどこまでどうしたいのかの両方を放さず持っている、しぶとさのようなものがポイントだとおもうんですね。

あくまでも主体が自分で、でも相手の目線からも考えて、必要な結果に結べるバランス。それが絶妙な人たちなんですよね。


自分にできるのは、自分の行動を決めることだけです。
それをしなくても問題がない場面で、それをすると決めたのは自分で、それは自分側の事情です。

だから言い訳はできないのだけど、だからこそ個性があらわれるところだし、本人にとって、価値観のど真ん中みたいなところなんですよね

そういう人にたくさん出会ってきて、そのたびに強く惹きつけられてきました。それは、「自分はこれを価値としているから、自分の責任でこれをやります」という姿勢そのものが魅力的に映ったからです。

自分はそういう人たちに、そうなりたいと思わせてもらったし、今もそうでありたいとおもっています。

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今日は、「観る」ことについて、あえてネガティブに使われがちな表現をタイトルにして書きました。

読んでいただきありがとうございます☺︎

誤解を恐れずにいえば、

自分から《ひとの顔色をうかがう》のは楽しいですよね。


ヒトとしての人は、意外と動物の部分が残っていることを自覚していないケースがおおいけど、

動物と接するときと同じように、言語ではない情報を得ようとする姿勢は、ヒト相手にもおおきな助けになります。

でも同時に、得た情報の結果として本心ではないことを言ったりやったりすることは自分も相手も負担になります。

相手が求めることと、自分がどこまでやるのかのバランスをとって、自然体でいられるポイントを見つけることができたら、お互いの負担が少なくなって、よい関係を維持できるようにおもいます。

最後に、ひとつオススメしたいことがあります。

私、困ったときは、自分の周りの動物を見るといいとおもうんです。

自分の犬が四六時中ゴロゴロしているのを見て、悩んでいるときにとるべき行動がわかるわけではないし、何も解決はしないけれど、

それでも彼らの余計なもののなさ、《本来っぽさ》がヒントになったりするとおもうので。

是非お試しください♩


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