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原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』 端的な現実の<私>の特別さと<X>――<私/X>へ

※以下は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿 第2章  のⅡ&Ⅲ&Ⅳである。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。なお、これまで公開されてきた原草稿は、叙述系列に沿ったすべての記述ではない。

Ⅱ 「時間」と<現在>の矛盾


 Ⅰに引き続き、永井 均氏のツイートスレッドを以下に転載する。また、適宜永井氏の一部のツイートに対する私の返信ツイートも併せて転載する。転載されたツイートに対する考察をそれぞれのツイートの後に記載する。

永井均@hitoshinagai1 2023年5月30日
マクタガートは時間の捉え方を区別し、「現在」を含む「A系列」はじつはヨコ問題なので必然的に矛盾を含むことになる、と言ったのだ。これは非常に重大な発見なのだが、その重大さの意味もあまり理解されていないように私には思える。

永井均@hitoshinagai1 2023年5月31日
時間においても、どの時点もその時点にとっては現在であるとはいえ、端的な現実の現在(の特別さ)はなければならない(そうでないと時間にならない)。にもかかわらず、それは時間系列の内部には実在しない。逆にいえば、その実在しなさこそが時間系列という時間的に客観的なものを初めて作り出す。

永井均@hitoshinagai1 2023年5月31日
マクタガートの矛盾の話に戻れば、A系列は時間系列なのに、その内部にこの意味での特別の<現在>を内在させてしまってるので、必然的に矛盾を含まざるをえない、ということ。とはいえ、実際、われわれは現にこの矛盾を生きていますよ。<私>についても同じことですが。

 「時間」と呼ばれるものが成立するためには「なければならない」、矛盾なしには時間系列の内部に組み込むことができない「端的な現実の現在(の特別さ)」、そして「この意味での特別の<現在>」は、この<私>がまさにこの<私>を原初的にあたえるという事態としての、根源的な自発性と受動性の同時創出/自己触発という<働き Aktus>がただきなり与えられ(てい)ると考えざるを得ない<次元/場>である。<今-ここ>で、この<私>は確かにそう記述したのだが、「今」という「時間」において、またいかなる時間系列の内部においても、なぜこの<働き Aktus>がただいきなり与えられ(てい)るのかを言うことができない。
 この<私>は、先の記述をなすためには、この<働き Aktus>が「端的な現実の現在(の特別さ)」(「この意味での特別の<現在>」)と一体不可分な形でただきなり与えられ(てい)なければならないと考えるほかない。その意味において、端的な現実の現在(の特別さ)とこの<働き Aktus>との一体不可分性は、つねにすでにこの<私>にとって超越論的構成の<次元/場>にある。ただしこの事態は、「この<私>が超越論的構成の主体である」という事態ではない。
 すなわち、この<私>は、なぜこの<働き Aktus>がただいきなり与えられ(てい)るのかを言うことができないにもかかわらず、なぜこの<働き Aktus>がただいきなり与えられ(てい)ると考えざるを得ないのかと問うことが可能なのである。
 なぜそう問うことが可能なのか。それはまさに先のツイートにおいて、永井 均氏が「時間においても、どの時点もその時点にとっては現在であるとはいえ、端的な現実の現在(の特別さ)はなければならない(そうでないと時間にならない)。にもかかわらず、それは時間系列の内部には実在しない」と言って/書いていたように、この「私」もまた、「今ここ」において、「時間においても、どの時点もその時点にとっては現在であるとはいえ、端的な現実の現在(の特別さ)はなければならない(そうでないと時間にならない)。にもかかわらず、それは時間系列の内部には実在しない」と現に言う(書く)ことができているからである。

 『序論』において<私>は、時間とは、この現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態そのものであるだろうと書いた。この現実性と言語性との同時性の創出に「端的な現実の現在(の特別さ)」が一体不可分な形で組み込まれているという事態は、この現実性と言語性との同時性を不断に生成-消滅させる自動振動装置のような何かとして作動する。それは、無内包の<隙間/裂け目>を生成する無限振動という事態である。

 この時間の謎に最も接近して存在しているゼノンのパラドックスに内在する「矛盾」は、そのまま独在住の矛盾になる。この「矛盾」とは、アキレスと亀が独り二役であることがその最重要コアである。この「矛盾それ自体」について、永井 均氏は以下のように述べている。

「アキレスと亀が二者に分割して演じて見せている矛盾それ自体は、実際にはつねに一者に内在する矛盾として存在する。それゆえ登場人物たるアキレスと亀自身にも、じつはふたたびこの矛盾が内在することになる。」(『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』19頁注)

 この「じつは」において、独在住と不可分であると同時にそこへと<隙間/裂け目>を穿つ現実性の力が働いている。この力の作動の様態こそが、矛盾それ自体を孕んだ時間という事態そのものである。この力それ自体をこの<私>が把握することは絶対にできない。だが、把握することは絶対に不可能でも探究することはできる。

 その実在世界から最も遠く離れた事態を、この<私>が時間と呼ぶべきかどうかという問いに、あたかも我々によって哲学と呼ばれる作業をするかのように、答えることはできない(そもそもその問いの意味をこの私は考えることができない)。つまり、先の時間とは、この現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態そのものであるだろうという記述は、この私が我々として語り合えるような世界内的な意味を一切持っていない。

 その問いは、「時間とは何か」といった哲学の問いからは最も遠く離れた問いなのである。

Ⅲ 端的な現実の<私>(の特別さ)と<X>――<私/X>へ


 Ⅱに引き続き、永井 均氏のツイートスレッドを以下に転載する。また、適宜永井氏の一部のツイートに対する私の返信ツイートも併せて転載する。転載されたツイートに対する考察をそれぞれのツイートの後に記載する。

永井均@hitoshinagai1 2022年11月7日
いうまでもないことではありますが、「…自分がゾンビであると気づかないことが可能か」という問いは、「じつは3番目の「概念における再認の総合」から全てが始まるのだとすれば(そしてB版は実質的にはそう言っているのだとすれば)そうなるのでは?」という問いから出て来る問いです。

@hitoshinagai1 2022年11月8日
たまたま<私>であったほうがしばらくして死ぬと、<私>でなかったほうが<私>になる、という話は、要するには「3番目の「概念における再認の総合」から全てが始まる」からであって、これは、ゾンビであることに気づかないことができるという話と、本質的には同じ話なのです。

@hitoshinagai1 2022年11月8日
そうだとすると、たまたま<私>でなかったほうが「あれ、私は<私>ではないぞ」と気づくことがありえないのと同様に、ゾンビである人が「あれ、私はゾンビだぞ」と気づくこともありえないということになりますね。これは、正しいかどうかは別にして、とてもいい話ではないでしょうか。感動的な。

@hitoshinagai1 2022年11月9日
いいかえれば、<私>でなかったほうも必ず「おお、こっちが<私>だったぞ!」と必ず思う(風間くん問題の変形)のと同様に、ゾンビである人も「おお、私はやっぱりゾンビではないぞ!」と必ず思う、ということです。感動的だというのは、どちらの場合も、この「…と同様に」の成立が、です。

 もしカントが『純粋理性批判』をB版(第2版)で「概念における再認の総合」に圧倒的な優位性を付与する形で書き換えたように、現実に「概念における再認の総合」から全てが始まる」のだとすれば、そこに組み込まれている(はずの)「端的な現実の現在(の特別さ)」は非存在の領域へと追放されることになる。すなわち、「端的な現実の現在(の特別さ)」とは、「私」によってそのように書かれたもの、あるいは「私」によって「そのような何かは現実に存在しない」と言われる何かということになるだろう。さらに、「私」は「カントの『純粋理性批判』は、「そのような何かは現実に存在しない」という不動の枠組みにおいて終始構築されている」と言える、または(この「私」が「今ここ」でそうしているように)そのように書けることになるだろう。今ここで、つまり「今ここで」というある一定の幅を持ったこの実在的な時空において、この「私」はまさにそのように書いている。
 そこでは、現にこの「私」をある一定の時空という舞台の上へと登場させている、「端的な現実の<私>」の現実性と言語性との同時性の生成という事態があるはずなのだが、その事態そのものはあくまでこの「私」には不可視なものにとどまる。もしカント『純粋理性批判』の枠組みが「概念における再認の総合」を「現実に全て」とするのであれば、「あくまでこの「私」には不可視なものにとどまるという」という事態は、現にその何かが存在していないというその非存在を意味する。
 従って、『序論』における「上記の考察は、先に想定された<X>の把握の仕組みが存在すると想定した場合にも、同様の事態が不可避的に生じることを示唆している。すなわち、この<私>は<X>でもある。同様に、<X>は<私>でもある」という記述は、「この私にもXにもB版で記述された意味での「概念における再認の総合」という把握の仕組みが同じように存在するならば、この私もXもまったく同じように存在する」と書き換えられる。つまりこの場合、この私と「我々」でもあるこの「私」によって(それが何であれ例えば「イマヌエル・カント」という歴史上の人物をも含む)「X」と呼ばれる者(たち)は「まったく同じ存在者」であるということになる。
 すなわち、この「私」と「任意のX/他人」は「まったく同じ存在者」であり、従って「どちらも同様に(いわばゾンビとして、かつそのことに気づかずに)存在する」とも、また「どちらも存在しない非存在者である」ともまったく同じように言える(書ける)ことになる。まさに今ここで現にこの「私」がそう言って(書いて)いるように。
 この事態を言い換えれば、「いいかえれば、<私>でなかったほうも必ず「おお、こっちが<私>だったぞ!」と必ず思う(風間くん問題の変形)のと同様に、ゾンビである人も「おお、私はやっぱりゾンビではないぞ!」と必ず思う、ということ」になるだろう。

 この「私」と「任意のX/他人」のゾンビ的完全対称性という現に生成している事態は、「端的な現実の<私>」の現実性と言語性との同時性の生成という、それを現に生成している事態そのものが、あくまでこの「私」には非存在にとどまっているという事態である。これが極めてパラドキシカルな事態であるのは、現実性と言語性との無内包の<隙間/裂け目>の生成という事態によってのみ(sine qua non)、この端的な現実の<私>という事態が成立している、ということである。

 この「私」と「任意のX/他人」のゾンビ的完全対称性は、<今-ここ>での絶対不可分なこの<私>と<X>との対称性の自発的な破れと相互変換的に移行-変容する

永井均@hitoshinagai12022年11月4日
いずれにせよ「形而上学は可能か」という問いと「ゾンビは可能か」という問いは重なることになる。「ゾンビは自分がゾンビだと気づかぬことができるか」という問いと「形而上学者は自分が形而上学者だと気づかぬことができるか」という問いも。後者はどちらもそして同じ意味で!できるのでは?

 この「私」と「任意のX/他人」のゾンビ的完全対称性が、<今-ここ>での絶対不可分なこの<私>と<X>との対称性の破れへと相互変換的に移行-変容するのなら、<今-ここ>で「気づかぬことができるか」という問いに「どちらもそして同じ意味で!できる」と言う(書く)ことができるのは<今-ここ>での<私/X>というある未知の何かであるだろう。また現にそれ以外ではあり得ない。

 <今-ここ>で、<私/X>への扉が開かれる。[注20]

Ⅳ 気づくまたは気づかないこと


 「ゾンビは自分がゾンビだと気づかぬことができるか」という問いと「形而上学者は自分が形而上学者だと気づかぬことができるか」という問いの考察から、根源的な事実としての「気づくまたは気づかないこと」が可能な場が超越論的統覚という場以外にあり得るか?という問いをカントなら投げかけるはずだ。もちろんこの問いは、彼の「学としての形而上学は可能か?」という問いそのものである。つまり、「超越論哲学」とは、まさにこの超越論的統覚という場が、根源的な事実としての「気づくまたは気づかないことが可能か」という問い自体の可能性の条件であり、さらにはその問いの探究を記述する行為自体の可能性の条件でもある、という宣言のもとに遂行される営みのことである。
 従って、「ゾンビは自分がゾンビだと気づかぬことができるか」という問いと「形而上学者は自分が形而上学者だと気づかぬことができるか」という問いは、まさにカント/超越論哲学にとっての「学としての形而上学は可能か?」という問いであり、さらに「そもそも哲学書が可能か?」という問いでもあるだろう。
 だがこの問いは、カント自身に跳ね返って突き刺さる問いでもある。カント自身の『純粋理性批判』の記述を含めて、以上はすべて事後的な記述であり、「気づくまたは気づかないこと=超越論的統覚の場」という記述は、事後的にしか可能にはならない気づきに基づいた記述である。「気づくまたは気づかないこと」を分割し、「気づくこと」という超越論的統覚の問いのポジションから「気づかないこと」を解明する(「気づくこと」の超越論的条件を抽出する)超越論的な問いの場において、「気づくこと」と「気づかないこと」は循環的に分離不可能になり癒着する

 この循環的に分離不可能になり癒着するという事態において、「私」と「任意のX/他人」のゾンビ的完全対称性は<今-ここ>での<私>と<X>との対称性の自発的な破れへと相互変換的に移行-変容する。


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永澤  護 /dharmazeroalpha
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