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「存在論」の彼方Ⅱ 数 線 コギト(「思うもの res cogitans」の思い)


「数と線はあらゆる思考に先立っているのか」という問い。ピタゴラスと純粋直観(カント『純粋理性批判』)に向き合うこと。

ただし数と線はプラトンの語っていた「真実在(イデア)」的な実在ではない何かである。イデア(形相)またはカテゴリーと等値することはできない。よってプラトン(やアリストテレスの書物)が存在しなかったとしても探究の性格は不変である。この点で私はショーペンハウエルと分岐するのかもしれない。ただしショーペンハウエル哲学は「イデア」を不可欠のものとしたが「イデア論」からは遠く隔たっている。

2022年10月22日(土)


上記二つのツイートセリーを下記に転載する。

永井均『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』発売中@hitoshinagai1  根底にある問題は、そもそも夢を見るということは(いかにして)可能か、という問題で、これは意外なほど難しい。これもまた、脳のどこそこがどう働くとか、実際に夢は見られているではないか、といった諸々の的はずれな反応が出て来がちな(真に哲学的な)問題の一つです。

@hitoshinagai1  これは「(いかにして)可能か」という超越論的構成の問いの「形式」で(のみ)超越論的構成(夢の超越論的条件の作動)を独在的に突破できるのかという哲学の究極問題だと思われます。脳科学を始めとする科学的探究を排除してかつ超越論的構成にも依拠しない探究が「可能か?」とも言えます。

上記で問われているのはまさに哲学の究極問題であり同時に科学の究極問題でもある。いつの日かAGI(人工汎用知能)またはスーパーインテリジェンスが生まれたとしても(AGI人工汎用知能またはスーパーインテリジェンスにとっても)究極問題であり続けるだろう。

私はカントならOKという立場ではないが、カントなら「形式」への問いとしての哲学的探究は全て超越論的構成条件つまりは「形式」の探究になると応えるだろう。これは根底的なトートロジーであるが、純粋直観としての時空がこの意味での「形式」の産物であるなら純粋直観は言語と呼ばれる何かの産物でもあるのか?  この場合「言語」をどう考えるべきだろうか?   ここにはカント哲学の内在的矛盾がないだろうか。言語と数と線の関係をどう考えるのかという問題がある。

<私>が無内包の現実性の「形式」であるならば、このことと言語との関係が問題になる。さらに根底的には、カント哲学の「超越論的統覚」(Ich denke)とデカルトの「コギト」(cogito=「思うもの res cogitans」の思い)との関係性への問いである。

数と線もそれ自体は無内包の現実性の「形式」(実在性の地平自体を産出する図式)ではないか? デカルトのコギト(「思うもの res cogitans」の思い)がカントの超越論的統覚の働き(Aktus)の「形式」として(この「として」が超越論的構成の条件となるのだが)作動する場合に純粋直観=時空が産出される。

数と線は言語と等値することはできない。だが「形式」としてはともに(最も包括的なパラダイムである)ショーペンハウエル哲学の「表象」であると言えるかもしれない。しかしこの点に限定した考察はかえって数と線の探究を不鮮明にするだろう。

以下は言わば数学的意味での予想だが、超越論的構成と独在性はその働きAktusという側面から見ればどちらも同じ<現実性>の力の二つの効果である。言い換えれば独在性において働く「世界超越的な力」と超越論的構成において働く「世界構成的な力」は同じ<現実性>の力の二つの効果である。

【予想】独在性の世界超越的な力と超越論的構成の世界構成的な力は不断に他方へと反転しない限りそれ自体としての力を働かせることができない(というパラドキシカルで根源的な事態)


 




デカルト『第三省察』のコア「絶対的に到達不可能な数」が数える力とともに〈私〉に与えられているということ


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