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「父」 母のエッセイ 『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』より

 父は、母と結婚後、男ばかり三人立て続けに生まれ、四人目にようやく女の子を授かったのだが、そのときの喜びようといったらなかったと、母は後々言っていた。その女の子が私だった。だから、私は父から貰った愛情の思い出は、本当に数え切れないほどあって、思い出すと胸が熱くなるほどだ。遠い昔のことなのだが、今でも父の優しい表情や声を昨日のことのように思い出す。

 亡き母が生前話してくれたところによると、私が産声をあげたのは東京の赤坂だそうだ。その後まもなく一家は郊外の中野に引っ越したというから、私には赤坂の記憶はまったくない。その頃、我が家は赤坂の「一ツ木通り」という通りに面していて、父は昼間会社勤め、母はそこで小さな洋品店を営んでいたという。

 中野の家の前の通りは、大人になってから行ってみると、驚くほど狭い道で、まるで路地といった感じだった。その道が表の電車通りまでまっすぐに続いていた。当時、車の行き来などほとんどなくて、その道は子供たちの格好の遊び場だった。子供たちにとって、そこは必要にして十分な広さだったのだ。

 女の子は、縄とびやおはじき、かくれんぼ、石蹴りなど、男の子はベーごま、めんこ、またはボール投げなども少し離れた所でしていたが、それこそ日の暮れるまで飽きもしないで、よく遊んだものだった。

 夕方、友達と道路で遊んでいると、電車通りの方から、父が濃いグレーのスプリングコートを着て中折れ帽をかぶり、こちらへ向かって歩いてくることが、よくあった。私はその姿を見つけると、いつも「お父さん!」と叫び、父へ向かって走り寄った。父は必ず私を抱き上げて、大きな声で「ただいま!」と、ごわごわの顔を寄せて頬擦りをしてくれた。父は溢れるほどの優しさで私を包み込んでくれた。

 そんな父だったが、世間的にはあまり世渡りの上手な人ではなく、立身出世などとはまったく無縁な人だったようだ。けれどその知識の豊富なこと、まわりから「生き字引」などと言われていた。子供たちが何を聞いても、即座に優しく丁寧に教えてくれた。私は子供心に「お父さんってなんて偉い人なんだろう」といつも思っていたものだ。

 また、父は実に人が良くて、時折、知り合いが借金の依頼に訪れて来たが、そんな時、決して断ることができず、いつも気前よく貸していた。そのくせ返金の取立ては絶対にできない人だった。母は「うちだって余計なお金なんかあるわけじゃないのに。お父さんは本当に人がいいんだから」と、よく、こぼしていた。今でもうっすらと記憶の中に浮かぶ一つの光景がある。それは父が客間で、小学生くらいの男の子を連れた中年の女の人と向かい合っている姿である。その人は泣いているようだった。夫が病気なのか、別れたのか、子供の私にもちろん理解なんかできっこないのだが、とても気の毒だという印象だった。父はそんな人を見過ごしにできない人だったのだ。人が良いだけではなく、優しい心の持ち主だった。だからいつも母に文句言われながらもお金を貸していたのだろう。

 父は平凡なサラリーマンで一生を終わったのだが、それでも東京の街中に何軒かの家作を持っていた。多分、母の才覚で手に入れたのではないかと、今では思っている。ただ父に従っていたのでは、子供たちの教育もできないとでも、母は思ったのかもしれない。ただしこれらの家は、空襲で中野の自宅以外は一軒残らず焼けてしまった。あの家が、もし戦後残っていたら、私もそれまで通っていた医学校も続けられて、その後の人生も少しは違っていたかもしれない。これは未練だが…。なるようにしかならないのが人生である。

 父は無類の子供思いだった。今でも懐かしく思い出す。

 子供の頃、私の家では毎年、房総や鎌倉、逗子などの海へ避暑に行っていた。父のようなサラリーマンでも、そんなことができるのどかな世の中だったのだろう。夏休みの間、一ヵ月ほど、海辺の小さな部屋を借りての気儘な暮らしだった。父は土曜日の午後訪れ、月曜の朝、東京へ帰るのが常だったが、いつもお土産の玩具や本、肉類などをいっぱい持ってきて、母や子供たちを喜ばせてくれた。

 父は勤めがあり、また家にはコロという犬がいたので、そんな「土帰月去」の生活をしていたのだろう。こんな家族思いの父だったが、ただ一つ欠点があった。それはお酒がとても好きだったということだ。夜遅く、まだ帰宅しない父を心配して、母はいつも私を連れて表へ探しにいった。酔ってどこかの溝にでも落ちているのではないかと、暗い夜道を探し回ったものである。父が酔顔で帰宅すると、母は怒りのあまり、すでにお米を磨いで水を張ってあった釜の中へ、一升瓶の醤油をぶちまけたこともあった。帰るまではあんなに心配していたのに、父の顔を見入ると途端に怒りを爆発させる母の気持ちが、このごろはよくわかる。

 戦争の足音は日一日と高まり、国内の政情も不安定さを増していたが、あの頃我が家はまだ幸せだった。お握りを持って一日海で遊び過ごした日々。父は泳げないので、いつも私や妹と浅瀬で浮き袋を付けてビチャビチャ遊んでいた。あのときの父の楽しそうな顔、今でも決して忘れることはできない。

 こんな平和な時も何時までも続かなかった。それ以後、日本は一目散に戦争への道を突き進んだのである。辛い日々だった。食料は不足し、空襲は相次ぎ、国民、特に都市の住民は本当に戦争の辛苦を嘗め尽くした。那須の山里へ疎開したときの、父母の苦労は並大抵のものではなかった。東京大空襲があったときは、私は下町の友達の家で翌日の試験勉強をしている最中だったが、まるで悪魔の叫びのように響き渡った空襲警報は、本当に身の毛のよだつような恐ろしさだった。幸い、その友達のお兄さんが陸軍の将校だったので、的確に避難誘導をしてくださり、紅蓮の炎の中、命だけは助かった。庭の片隅にあった小屋に、鶏の焼け爛れた姿が無残に転がっていた。一面の焼け野原に立ち尽くし、なにも考えられなかったのだが、それでも一人で、池袋の下宿先まで線路の上を歩いて帰った。那須の山の中で、東京方面の真っ赤な空を眺めながら、父母たちは私のことが心配でいても立ってもいられなかったそうだ。

 翌日、ようやく切符を手に入れ上京してきた父は、私の無事な姿をみて泣きながら抱きかかえてくれた。

 食料不足とその後も続く激しい空襲、日本はもはやアメリカに立ち向かう力もなくなった。八月十五日ポツダム宣言受諾でついに長く辛かった戦争は悪夢のように終わった。皆悲しみと虚脱感でいっぱいだった。

 戦後、ようやく平和になったと思ったのも束の間、父はその年の秋、脳溢血で倒れ、わずか三日の後亡くなってしまったのである。その頃、私は父とともに、中野の家の様子を見る為に上京していたのだが、父がいきなり倒れたとき、私は一人でどうすることもできなかった。お医者さんは疎開してしまい、薬屋さんもどこにもおらず、私はとにかく母に電報を打ったが、汽車の切符がその頃なかなか買えず、母が来たのは父が亡くなるわずか前だった。それでも長年連れ添った父の最期を、せめて短い時間でも看取ることができたのは、母にとっては幸せといえるだろう。

 母が後で言っていた。「お父さんがね、春栄にはよく看てもらったよ。春栄を頼むよと言っていたわ」と。私は父がそんなことを最期に言ったということを聞いて、もう涙が止まらなかった。私こそお父さんには小さいときから、どれほど愛してもらったことか。でも私は父に何一つ親孝行もしなかった。これから平和になって、父や母と楽しく暮らしたいと思ったのも叶わなかった。戦争中も、この戦争はきっと負けるよと言っていた父だったが、平和な世を垣間見ただけで父は逝ってしまったのだ。

 中野の家には今、甥一家が住んでいる。ただし、アパート付きのしゃれた住宅に変わり、あの古い昔の家は私の記憶の中にだけ面影を留めている。甥を訪問するということも、ほとんどなくなった。

 父が亡くなってから、母と戦後の暮らしを必死に支えてきた。結核を発病した妹と、まだ小学生だった弟をかかえ、母と励ましあいながら生きた日々に今、悔いはない。父や母に愛された記憶だけがその後、私の生きる力であった。困ったときには、いつも父に助けてもらった。その時はもうこの世にいない父だったが、いつも父が仏檀で唱えていた「南無阿弥陀仏」を私も唱える。すると父が助けてくれるような気持がして心が落ち着いた。

 私は本当に父っ子である。あり余る父の愛情で、何とか生きてきた。いつか父の許へ行った時にはまた思い切り甘えて、あの懐かしい笑顔に今度は私の頬を摺り寄せて、「お待たせ」と言いたいと思っている。

二〇〇三年三月三十日 執筆




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