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大森荘蔵/その最深部の問題 増補改訂版

現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論第1章Ⅰの「附論」を転載

 図形と数といった数学的存在と「今」は、生成や消滅の過程にはありえず「実体性(実在性)」を持たない「アポリア的存在」として、「可能態(潜勢態)-現実態」というアリストテレス『形而上学』の枠組みにおいては殆ど取り扱い不可能になる。だが、アリストテレスは、プラトンとの対峙においてその哲学的-形而上学的探究の最終段階までこのアポリアと格闘し続けたと思われる。つまり、プラトンとアリストテレスの哲学-形而上学の核心は、たとえカント以前だったとしても、現象として与えられた三次元世界を超えてその根拠に遡る幾何学超越論的成立条件の探究である。デカルト、ライプニッツ、カント、そして大森荘蔵がその探究を継承した。大森荘蔵は、脱-超越論的方向における超越論的探究を試みたが、彼はプラトンから始まる幾何学との格闘という哲学の系譜において位置付けられ得る哲学者である。
 言語ゲーム一元論的に解された「後期ウィトゲンシュタイン」または『哲学探究』のウィトゲンシュタインと「語り存在」としての存在意味論を展開した大森荘蔵とは哲学的探究の姿勢における同一性と差異が存在するが、ウィトゲンシュタインに言語ゲーム一元論に回収しきれない「私」の無内包性という最重要の洞察(特に『青色本』27における「紙の冠」および40における「私」)があるように、大森荘蔵にも言語ゲーム一元論的枠組みに回収しきれない、我々の現象世界の三次元性の根としての「知覚正面の無限集合」(大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 107頁 強調は筆者による)という洞察がある。ここにおいて、大森荘蔵は、知覚の総合的統一における(またはそれが前提する)「無限の直観」(「知覚風景」の「トータル」/「無限集合」)を前提している。また、「科学言語」(「日常言語を時間空間的により精密にした言語」)を含むあらゆる語りの背景としての時空の存在を前提している。なお、上記「日常言語を時間空間的により精密にした言語」を始めとする引用符付表現はすべて大森荘蔵自身のものである。
 大森荘蔵の「重ね描き」論の基本的前提が、時空の連続性(「時空連続過程」)である。彼が「この重ね描きは、脳から視覚風景への時空連続過程の不在と傷害因果の表現という現代生理学の現状に見事に適応した説明方式である」(大森荘蔵 前掲書 245頁 強調は引用者)と言う場合の「時空連続過程の不在」は、例えば脳から視覚風景へと因果過程を逆方向に辿ろうとする試みが挫折/途絶することに示されているように、実在的な現象における時空系列の恒常的な反復可能性/連続性――時空系列による現象領域の穴のない完全被覆性――の不在を示している。「重ね描き」によって、現象における時空系列の恒常的な反復可能性/連続性の不在は、「語り存在」としての資格においては意味を持たないものとしてあらかじめ消去される。大森荘蔵の存在意味論を貫く根底的問題は、この「重ね描き」によって裏打ちされた時空の連続性をカントが事実問題の地平と峻別した権利問題の地平と二項対立的に切り離してその改訂された代案として提示していることである。カントが前例のないやり方で新たに切り開いた権利問題の地平こそが、幾何学の超越論的成立条件の問題に淵源する時空系列の恒常的な反復可能性/連続性の可能性――つまりアプリオリな総合的判断としての数学的命題と因果法則命題の可能性――の探究の地平そのものであった。
 だが、『序論』およびこれに引き続く『本論』全体にわたる論点だが、この二項対立的な切り離しは不可能である。大森荘蔵の「語り存在」の存在意味論も究極的には幾何学自体の超越論的な成立条件の問題に行き着くが、大森荘蔵自身はその問題探究をある地点を超えて問うことを我々の生活世界において無意味として排除している。そのある地点とは、大森荘蔵の哲学のコアとしての、「何かを言い何かを思う度にわれわれは多くの普遍を経験しており」(大森荘蔵 前掲書 171頁)という記述に典型的にみられるような、我々の経験(我々の世界)における「言うこと」と「思うこと」の同一視という地点である。ここにおいて、真の経験論を目指す大森荘蔵の哲学における形而上学的な、しかし除去しがたい残滓としての、「本質と実存が現に分離可能であるにもかかわらず、相互反転可能な/完全対称的な分離可能性のもとでしか思考/記述できないという厄介さ」が存在する。すなわち、「我々の経験(我々の世界)においては、本質/言うこと(言語性)実存/この<私>が思うことは相互反転可能性を持つ分離可能性においてしか思考/記述できない。それは厳然として先立つはずのこの私の実存を我々の経験世界において思考/記述すること――そして伝えること――の持つ宿命のようなものである。[注2]で述べたように、この厄介さの起源はパルメニデス(「同じそのものが、思惟され、ある」)だが、まさにそのパルメニデスが「丸い球体の塊のように」「限界としての極限」(断片8.42-43DK)という幾何学的純粋直観の比喩から出発している。 

 まさにその地平において、「この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成する」という事態が探究されなければならない。すなわち、大森荘蔵が発見した「重ね描き」という無内包の<働き Aktus>が創出する知覚正面の無限集合という場こそ、この<隙間/裂け目>が生成する現実性と言語性との同時性の場なのである。先取り的に言えば、それはこの<私>の<今>――あるいは<私-今>である。図形と数といった数学的存在と「今」は、まさにこの無内包の<次元/場>で出会うのだ。この重ね描きという無内包の<働き Aktus>が、ウィトゲンシュタインの「紙の冠」と共鳴する。なぜなら、ウィトゲンシュタインの「紙の冠」も、この無内包の<働き Aktus>であり<次元/場>だからだ。

 あるいはこのことを予感していたかもしれない大森荘蔵にとって、我々の経験世界それ自体以外はすべて「方便」になる。例えばあらゆる座標系が方便であることに人類史上最も痛切な思いをしたであろう人物の一人は大森荘蔵であるだろう。その意味において、彼の哲学の全体はカント的な理性の病理的働きの批判的分析であり、彼はカントの統整的理念(統整的原理の図式)を方便としてほぼ全面的に認めている。彼にとって哲学は、終始一貫して問題の探索と分析以外のものではない。「哲学では最後に笑うのはいつでも問題のほうであるらしい」(大森荘蔵 『時は流れず』青土社 1996年 165頁)という彼の言葉はまさにそのことを示している。

『青色本』27における「紙の冠」および40における「私」については、永井 均『ウィトゲンシュタインを掘り崩す ウィトゲンシュタインの誤診』ナカニシヤ出版 2012を参照



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