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日日自炊自足【9月26日の夕食 と 身体の働きと思考を分ける。】

夫なし。子は独立。
自炊の習慣で自分の必要をみたす、50代ひとり暮らし。
アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。

「家族のためのご飯」を卒業した献立の記録 と 自分を観察する日記。

残りの
・木綿豆腐 もやし 長葱 卵 のスープにキムチをのせたもの(味付:鶏ガラスープ) 
・かぼちゃ の塩煮(味付:塩 酒 みりん)
・オクラ を茹でたもの(味付:塩)
and
・めかじき(味付:味噌 みりん 砂糖 しそ すり胡麻 を混ぜたもの)

久しぶりに嫌な思考が離れない。

絶えず言葉が、嫌な気持ちになるような言葉の組み合わせが頭の中に充満していて、どれを掴んでも手の平が黒い泥で汚れてしまう感覚がある。
いや、掴むというよりも開いている手の中に次々泥が落ちてくる。
持ち切れず指の間からぼたりぼたりとこぼれ落ちた泥は足の上に乗り、動く(逃げる)こともできないので落ちてくる泥をよけることができなくなる。



わたしは今、感情と思考はセットになって「しまうもの(自動的)」という仮説を持っている。
ここで言っている感情というのは「身体の働き」のこと。
例えばそれは鳥肌だったり
例えばそれは普段よりも早い心臓の鼓動だったり
息切れだったり、背中を炭酸の泡が駆け上っていくような感覚だったり。

その「身体の働き」に合った思考を、(誰が、や 何が、はわからないけれど)自動的に掴んでしまう。
自動的と書いているのは「癖」とも同じことで
例えば
普段よりも早い心臓の鼓動に気が付くと、いや、気付かずとも慌てるような思考を掴みがち
みたいな感覚。

じゃぁ今、嫌な気持ちになるような言葉の組み合わせを掴んでしまうわたしの身体はどんな状態なのかを、じっくり点検してみる。


膝の痛みが長らく取れないこと
で、不安な言葉を掴んでしまいがち。

身体が重い(疲れている)こと
で落ち込んだような思考を掴んでしまいがち。

図書館から借りていて手元にある本5冊。
なんだかどれも手に取る気になれなくなっていた。
「あぁ疲れていると、わたしは本も読まなくなるんだな。」
他にも「疲れると物を落としがちになる」「好きな音楽が聴けなくなる」ということには気が付いている。

こうやって自分の特性をいっこいっこコレクションしていく。
そうすると「あ、もう本が嫌いになっちゃった!」とか「また落とした!自分バカ!」みたいな勘違いをしなくて済む。

それが真実かどうかも分からないし、常にそんな風に思えるわけではないけれど、この考え方を使うことでわたしは気持ちはほんの少し、楽になる。

週末は必要以外何もせずのんびり過ごそう。


かつてこの方法を知らなかった時わたしは、泥の思考を何とか消そうと
無理矢理人に会ったり新しい場所に出掛けたりしていた。

でも実は重たい思考の絡まりの原因は身体からのサインで、主に疲れや乱れからくるものだったとすれば
当時解決策だと思っていたものは、むしろ逆効果だったのかもしれない。


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