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50歳ひとり暮らし(仮)【3月22日の夕食 と 嫌な経験で自分を観察する】

夫なし。子は独立。
アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。
「家族のためのご飯」を卒業した50代。主に自炊の記録 と 自分を観察する日記。

残りの
・キムチ(市販品)
and
・鯛 の煮付(味付:ラカントS 酒 みりん 醤油 薄切り生姜)
・いんげん の胡麻和え(味付:砂糖 醤油 すり胡麻)
・白菜 椎茸 長葱 を卵でとじられなかったもの(味付:麺つゆ)

今この画面の一行目に
「嫌なことが続いて」と  入力してしまったけれど
いや、待てよ。続いて は ない・・な。

嫌なことをきっかけにして「嫌な気持ちが続いている」ことは確かだけれど、「嫌なことがいくつも連なっている」というわけではないぞ、と思い直す。

そのきっかけは ↑ 。
いつまで引きずってんだ、と思うかもしれませんが
時間がかかると分かっているからこそ、こういう人と関わりたくないのです。

理不尽に怒りをぶちまける人
そんな人のことを好きという人は稀でしょうけれど
こういう人は嫌いだけれど、関わったとしても長くは引きずらない、という人はいると思うんですね。
でね、そういう人とそうでないわたしのような人
一体何が違うのかって思うとね(そうでない人にはなれないので想像です)

理不尽に怒りをぶちまける人に会ったとき

相手を責められるか(想像)
自分を責めてしまうのか

ということなんじゃないかな、と思うのです。
前者が傷つけられるのは相手にだけ だけれど、後者は時間がたっても自分で自分を傷つけるのでいつまでも痛みが消えません。
それが辛く苦しいのです。(このことに気が付かないと、怒られたことに傷ついて苦しい・・と考えてしまう。)

上に掲載した記事で「(心の中だけど相手に)怒れるようになった」と書いたけれど、わたしの場合それは呼吸みたいにそうしようとしなくてもできる、というものではなくて、意識しないとできない深呼吸みたいなものです。
(もちろん突発的に怒りがわくこともあります。多々です。
でも今書いているのは「怒りを持った人と接した場合」の話です。)

「怒る」を選ばなかった場合、相手がどれだけ理不尽であっても
「あの時、あぁ言えばよかったんじゃないか」とか
「わたしだから怒られたんだ」とか
当たり前にある「自分を責める」思考を無意識につかんでしまう。
それがわたしにとっての呼吸(考える前にある身体の機能)だから。

でねぇ、まぁ今回は怒られたことに更に他の要素も絡みついてきた上で「解決」という分かりやすい状況変化もなく、自分でも複雑になっているな・・と気付きながらもその渦から抜け出せなかったんですよね。

複雑にした原因は「わたしだけが損をしている」という気持ち。

この一連のことで自分を観察した結果
全身の血管の中にたくさんの

「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」「わたしだけが損をしている」が紛れていて、自分を責め傷つけるほどに外側に噴出してくる。

ということに気が付いたんですよね。
でもね、これまで「自分を観察する」を続けてみたからこそ言えることは

こうして書けているということが
この不足感が「ある」ということに気が付いた(認めた)証拠。
それはわたしに同化していた粘膜(思い込み)を、ほんの少しつまみ上げることができたということ。

そうすると「わたし」と「粘膜」の間にわずかな空間ができる。
その連続の果てに「(思い込みの粘膜が)剥がれる」が起こる。
だから、気付くを続けるために自分を観察をするのです。


おまけ
50代にもなって未だに「怒られたわたしが悪いんだ」「どうにかして許されたい、許されなければ」という子供の頃の思考が染みついているのだよねぇ。きゃっ、恥ずかしっ。


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