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日日自炊自足【9月14日の夕食 と 「愛」と同じくらい説明のできないこと】

夫なし。子は独立。
自炊の習慣で自分の必要をみたす、50代ひとり暮らし。
アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。

「家族のためのご飯」を卒業した献立の記録 と 自分を観察する日記。

残りの
・牛肉 じゃがいも えのきだけ 長葱の青い部分 の煮物(味付:ラカントS みりん 醤油)
and
・鮭 キャベツ のホイル焼 に 茗荷 をのせたもの(味付:味噌 砂糖 みりん すり胡麻)
・海苔巻き(テイクアウト)

愛とは何か
と聞かれて、はっきりと答えられる人はいるのだろうか。

わたしにはできない。(断言)
「この」感情にどう言葉を付けたらいいのかわからない。
の、以前に

愛 =「この」感情
の「この」が、どれだかが分からない。

例えば
「愛は漢字の真ん中に心があるから真心
恋は下にあるから下心」
なんてトンチ的なことを聞いたことがある人はいると思う。

わたしは「わたしの愛」は分からないけれど「わたしの恋」に関しては定義を持っている。

わたしがこれまでしてきた「恋」に対する実感は
「相手そのものではなく、わたしの中にある(わたしが作り上げた想像上の)相手像に好意を寄せること」だった。


広辞苑によると「愛とは、親兄弟のいつくしみ合う心、広く人間や生物への思いやり、男女間の愛情、かわいがること、大切にすること」と書いてあるらしい。

なるほど。
「男女の愛情」(だから愛情ってなんやねん!って話)以外は理解ができた。けれども、納得はいっていない。実感が伴わない。
親や子や孫に感じるものはあるけれど、わたしの感じるそれが世間でよくいう「愛」と呼ばれるものと同じであるのかがわからない。

例えば子供の頃って肩こりという言葉は知っていても、体感はない。
だから「あ、これが肩こりか」と実感するまでは、肩こりとはきっとこういうものなのだろうという想像でしかないわけだ。
わたしにとっての「愛」は、そういう感覚・・に近い気がしている。

えっと、それでタイトルに戻ると・・

わたしは「愛」と同じくらい
多用されている割に実感の持てない言葉があって、それが


「尊敬」だ。


高校入試や就職試験の練習に必ずと言っていいほど出てくる
「尊敬する人は誰ですか」という問い。

これに、実感を持って「〇〇さんです。なぜなら」と答えられたことがない。
「両親です」という人がいるけれど、わたしにはそれもわからない。
3人子供がいて高校以上に進学させてもらってありがたい。
とは思うけれど、尊敬とはそういうこと  なのだろうか。

憧れや好き、すごい!なんていう言葉なら体感とかっちり組み合わせることができる。

でも、尊敬って・・・何だろ?(きょとん)



あ!そういえば
「愛」や「愛する」「愛される」はわからないけれど



「愛おしい」であれば、この身に覚えがある。
まだ幼いお孫様が「ぽっぽー!(孫からのわたしの愛称)」と呼びながら駆け寄ってくる様などは、まさに愛おしい。

でもそれは上で書いた「わたしの恋」の定義みたいに・・



らーらーら ららーら   言葉に 


(今のところ)できない。




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