自分を信じるのは、実際的で手触りのある行為——フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』
拝啓
青い空を突き上げる入道雲はすっかり遠のき、鮮やかな彼岸花が風に揺れています。
あなたからの手紙、ほんとうに嬉しかった。言葉を、想いを実現することが、とても軽くなってしまった今日日。落ち着いた便箋に、端正な文字。手書きが珍しいなかで、じわりじわりと喜びが湧き上がってきました。
ただ、あなたの心を占めているのは、随筆や詩を読む悦びではなく、劣等感。どのように向き合えばよいかという問いに、しばらく考え込みました。自分を誰かと比べる必要なんてありません。他人が持っているものを羨む必要も、自分が持っていないことを悔やむ必要もないのです。
それでも、なかなか自信がもてないというあなたの手紙を前に、ここ数日、片想いのように一人の女性のことを思い浮かべていました。『悲しみよ こんにちは』を書いた、作家のフランソワーズ・サガン。それほど熱心な読者ではないものの、小説も、言葉も、生き方も、どこか気になってしまう。惹かれるというだけでなく、心に淡い擦り傷を負わせるのです。
最初に読んだのは、第2作『ある微笑』。20歳の大学生ドミニックと、40代の疲れて悲しげな中年男リュックの恋物語。つぎが第4作『ブラームスはお好き』。離婚歴のある39歳の女性ポールが、年上の恋人がいながらも、15歳下のシモンと恋に落ちる。そしてようやく、17歳の少女セシルが、父親で女ったらしの四十男シモンと、亡き母の知人であるアンヌが再婚するのを妬み、父が捨てた恋人エルザと、ひと夏だけの恋人シリルと一緒に、ふた親の邪魔をする第1作『悲しみよ こんにちは』を手に取りました。
「孤独」と「愛」が、サガンの一貫した主題です。「孤独」と「人間であること」が同義であり、その孤独から逃れる方法が、恋愛だというのです。10代で時代の寵児となり、ありあまる富を得て、2度の結婚と離婚、薬物依存にも苦しんだ全身小説家のサガンは生涯、「孤独」と「愛」を書き続けました。
『ブラームスはお好き』のポールも、『悲しみよ こんにちは』のセシルも、サガン自身も、繊細で恋多き女だった一方で、いつも孤独に苦しんでいます。しかし、彼女たちは、どんなに淋しくても、他人の期待に応えることで自分を満たそうとしません。求められるままに応じれば、他人が指し示す「他人の人生」を生きることでしかない。たとえ上手くいかないことがあっても、他人の感情に支配されない「自分の人生」を生きようとします。
あなたは自信が持てないという。そういう私も自信なんて持っていません。自分というものが解らないのに、自分を信じることはできません。他人にこう見られたいという願望があり、それを満たし、相手に認められたならば、自信になるのかもしれない。でも、それってほんとうの「自分」なのでしょうか。
私にできるのは、ある小説の登場人物のように、自分を見つめることだけです。彼はひたすら読書が好きなんだな。くだらない文章ばかり書いている。夏は忙しさに追われて何も手につかなかったみたい。やるべきことを先送りしてばかりの、情けない男。
でも、そんな頼りなくちっぽけな自分に、ちょっとだけ親切にしようと思います。部屋に入るときドアを開けて、背後に続く人の気配を感じたならば、そっと手で押さえて開けたままにする。そのくらい小さな心遣いを、自分にもしてみるのです。自分を大切にする、自分を信じるというのは、決して抽象的なことではなく、実際的で、手触りのある行為です。とうもろこしご飯をほおばり、じんわりと旨みが広がるのと同じように。
あなたの随筆を初めて読んだとき、あなたの声が聴こえてくるようでした。失恋に苦しんでいたけれども、ほかの誰にも書けないことを、ありのままの自分の心の裡を書きつけながらも、鼻の奥がつーんとする痛みや、どうしようもなく美味しいとうもろこしご飯の塩っ気が、心に淡く快い擦り傷を負わせたのです。
読者なんて勝手なものです。主人公と作家は本来、別の存在であり、別々の人格なのに、17歳のセシルの姿を、18歳のサガンに重ね合わせる。読者がセシルに恋をするように、小悪魔のような魅力と翳りをあわせ持つサガンに多くの人々が恋をしました。
私も同じです。あなたは実在しているけれど、ネットを介しているかぎり、物語の登場人物のような存在です。姿かたちも、年齢も、ふだんの暮らしも分からない。でも、読書好きな子どもが大好きな登場人物に手紙を書くのと同じように、私もあなたの随筆に惹かれ、こうして手紙をしたためています。
あなたはどんな本を読んでいますか。どんなときに孤独を感じますか。どんなときに幸せだと思えますか。どのように眠りにつきますか。どんな夢をみますか。なにがあなたを喜ばせ、あなたを悲しませますか。あなたが何を考え、何が好きで、どのように生きているかを知りたい。だってそれが、他人は一切持っておらず、あなただけが持っていて、あなたが必ず信じられるものだから。
あすは十五夜。中秋の名月といっても満月だとは限らないようですが、明晩はまんまるお月さまが見られそうです。悠久のときを超えて光る月の下では、泣いたり、笑ったりという人間なんて、ちっぽけなもの。でも、その泣き笑いがどうしようもなく愛しいのが人間のようです。
敬具
既視の海