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頑張れという言葉

僕は、よく「頑張れ」とか、「お互い頑張りましょうや」という言葉をよく使う。便利だからだ。頑張るという言葉を自らを鼓舞する言葉として適応するのはあまりにも抽象的で、心もとない。

しかし、その一方で、他人に対して然して興味が持てないし、どうしても価値相対主義的に考えてしまい、具体的なこと断定的にいうのをためらう僕は「がんばって」や「頑張りましょうや」の虜になる。何かに挑戦している人、取り組んでいる人と会話をするとき、それに触れないのは不自然だし、かといって自分が何かアドバイスをできるわけでもない。したいわけでもない。そのようなとき、相手に対して自らの前向きな意思を示しつつ、かといって何か影響を与えるわけでもない「頑張れ」という言葉は便利なのである。

しかし、そのような機械的な頑張れの多用も少し控えようかなと思った経験がある。それは、「頑張れ」といって怒られた経験があったからだ。

ある日、親戚の集まりで会った僕の受験生の従弟と話をしたことである。僕は宴の席で隣に座っている彼と、受験の話をした。会話は志望校や、センターの話、僕が質問するかたちで展開されていった。そして、僕は質問する要素がなくなったので、話を切り上げるために「まあ、頑張ってよ。」とそれを、句読点のように使用すると、今まで穏やかであった従弟の顔色が変わった。「頑張っている人に対して、頑張っていうのは無責任じゃないですか?」僕は、思わぬ反論に、「あ、ごめん。別に特に深い意味で言ったわけではないから。」と言って、なんとか従弟の怒りを鎮めた。そこで便利でだれにも前向きな印象を与えると思っていた頑張れという言葉を怒る人がいることを知った。

その後、旧友と何年かぶりにlineをした時も同じような経験をした。近況報告も済み、間延びしてきたので、僕はlineを終わらせるために、「ま、お互い頑張りましょうや。」と言ってlineを終わろうとする。すると、「頑張るのって当たり前じゃん。なんでそんなわかりきったことをいまさら上から言われなきゃならないの?」それまで、旧友の穏やかだった文面が一変した。「まあ、抽象的な言葉だからな。捉え方にもよるだろうけどね。」僕がそう返信すると、既読無視であった。その後、その友人とはlineを一度も交わしていない。

僕は「頑張れ」というのは、相手にマイナス印象を与えないし、汎用性もあるので便利だななどと思って多用していた。そうしたら、案外それが嫌いな人も怒る人も一定数いるんだななどということが判明した。上の人々が特例なのかもしれないが、怒られたのは事実である。

勉強になった。

コミュニケーションや言葉というのは他人との依存関係において成り立つものだ。そのすべてに適用できる便利で汎用性のある言葉などないのかな。それゆえ、コミュニケーションは難しい。言葉も難しい。面倒だ。しかし、避けては通れない。必要不可欠である。

僕らはそこに悩むのではないのだろうか。

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