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「変革」と「分断」惑いのなかにいる僕ら


モーパッサーンの「メヌエット」を読み直してみた。まずは、話を振り返ってみる。

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この話の舞台は19世紀、語り手、ジャンブリデルの若き頃の悲しい思い出だ。彼は語りの冒頭で、戦争や自然災害の悲しみ、子を失った母の悲しみよりも、運命のいたずらや日常の出来事に垣間見られたささやかな悲しみの方が胸を締め付け、傷跡は癒えにくいと述べる。

陰気な青年だった彼はある日、パリのリュクサンブール公園のなかの苗床を散歩するのが好きだった。彼はここを「前世紀の遺物みたいな庭園」と表現する。彼はまた、そこの近くにあるベンチに毎日のように座っては、本を読んだり、物思いにふけったりしていた。

彼はある日、生垣の向こうでバレエの動きを一人でする老人を見かける。それからも、彼は毎日のようにバレエの動きを一人でする老人を見かけるのである。老人は毎日のように誰も見ていない中でステージで観衆がみているかのように生垣を前に一人で踊りあげるのである。

すっかり老人に興味を持った彼は老人に話しかける。老人は、ルイ15世の頃、オペラ座のバレエの総監督をしていた人物だそうだ。老人はバレエの話になると、饒舌になった。

そして、ある日の事、老人はブリデルに妻のラカストリを紹介する。彼女は多くの人に愛されたバレエダンサーであった。老人とラカストリはブリデルの前で当時、王政とともに消えたと言われるメヌエットを二人で踊りだす。

この姿を見たブリデルの心情は、「笑いがこみ上げてくるのを覚え、同時にたまらなく泣き出したくなっていた。」というものであった。その後、パリを発った彼が再びパリに戻った時に目にしたのは、壊された苗床の姿。

しかし、彼の心には老人たちの踊るメヌエットを見た時の悲しみが残っている。

(『岩波文庫 モンパッサーン短編選』より参照)

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僕らは、過渡期の状況に置かれている。人口減少社会、第四次産業革命などと言われるものが訪れ、「生産性」、「創造性」、「社会知性」などをテーマに様々な分野で改革が行われている。

個人的に言えば、真理は常に変化するものであると考えるのでこういった変革は好きだ。かつての産業革命で生産性が上昇したこと、人々の余暇時間は増えること、よりパーソナライズされニーズにあったものを、人生を手に入れることができるということに向かうことは好ましいように思えてくるのである。

しかし、僕にはある視点が欠けていた。それは「分断」だ。

それはある友人と「変革」について話し合っていた時のことだ。「変革」を全面的に肯定する僕に彼はこういった問題提起をなした。「既存社会が成り立っていたのは少なからず、既存の人々がいたからである。それを一気に否定して、見下すのは分断を生むのではないか。」

僕はここで何かにハッとした。そしてモーパッサンの「メヌエット」にもう一度目を通したいと思ったのである。

今ままで社会を支えていたものが壊され、細々と「私って生きていいですかね?」というようにメヌエットを踊る姿。19世紀を生きるブリデルはこれに「笑いがこみ上げてくるのを覚え、同時にたまらなく泣き出したくなっていた。」という感情を覚えた。その悲しみは何十年も鮮明に語られるほどの悲しい思い出として残るのである。この悲しみは18世紀と19世紀という劇的な変化のあるフランスで、「メヌエット」を踊る姿が滑稽に見えてしまうほど、時代と時代が分断されてしまったことに覚える悲しみではなかろうか。

「壊せ」、「変えろ」、「既存は悪だ。」、「変化しないことは後退の始まり」、僕の心の深層にある考えだ。しかし、そこにかけていたのはは先ほども言った通りの「分断」だ。好きなものを追いかけていくなかで、何かを変えようとするなかで、つまり変革するなかで、どうしても今までそこを支えていた既存のものの存在を真っ向から否定したり、また自分の歩んできた過去を否定したりしてしまうかもしれない。そして、その面影がふと垣間見えた瞬間に僕もブリデルのように過去と現在の「分断」、自分とは違う人との「分断」を感じて、笑いながら泣き出してしまうような心情になるのかもしれない。そして、とてつもない悲しみに襲われるのではないか。

確かに、連続性や関係性というものを変革という言葉で分断してしまうのは楽だろう。焦点が明確だから。そこだけ見ていればいい。しかし、僕らの住んでいる世界、人生はそういった連続性や関係性から分断しきることができるのだろうか。僕らは分断をするときに無理をしていないか。過去を否定してしまうことだったり、自分とは違った意見を持つ人の存在までも否定してしまわないだろうか。そして、ある日、とてつもない寂しさや悲しみを覚えないだろうか。

無論、「変革」は大切だ。それは歴史が証明している。しかし、そこには常に「分断」の懸念が孕んでいる。僕らはまだそれに対して明確な答えが出せていない状況にあるのではないか。「変革」を望み、「分断」に悲しみを覚えながら、惑いのなかにいるのである。それは一方的にどちらが良い、悪いなどとと、割り切れないから僕らは惑いの中にいるのだろう。

だからこそ歯切れが悪く、割り切れない惑いの中にいる僕らは、可能な限りの事実を見なければならないし、他人や、自らの過去を否定してはならないのではないだろうか。ブリデルが感じたような悲しみや寂しさを味わわないように。

終わり。

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読者さんへ

少し飛ぶと宣言をしてから今日は最初のエッセイだ。飛んでいる間は勉強と読書、議論に集中した。議論に割く時間はいつも以上に多かったと思う。男性、女性、オフラインからオンライン、ジャンルは政治から文化まで様々な話題を議論した。意見が対立することもあったがその対立も総じて楽しいと感じた。しかしそこには、少なからず吐き出せない思い、その後に残像のように残る思いがあった。勉強をしていても、本を読んでいても同様だった。そして、「あ、書きたい。」そう思ったのだ。

インプットとアウトプットの調和が戻ってきたのである。インプットをしながら生まれてきた思いや、考えをアウトプットする。アウトプットを一旦やめたことで、生まれてきた「書きたい」という欲望だった。そこに調和を見出したのである。

これからも、どうぞこの駄文をよろしくお願いします。

                            ダクト飯


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