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嫌いと存在否定

さまざまな主義主張、思想に彩られたこの世界。それがかみ合う、かみ合わないは当然存在するであろう。

私があなたを彼・彼女とかみ合わないと感じるとき、きっと「嫌い」という感情が生まれるだろう。

私があなたや彼・彼女を「嫌い」になるのは仕方がない。だって、何千何百通りの関わり合いが考えられうるこの世界においてそのすべてがかみ合う人との関わり合いであるわけではないのだから。では、これはどうだろう。私はあなたや彼・彼女が「嫌い」であるからあなたや彼・彼女はいなくてもよい。

それは「嫌い」ではなく、「存在否定」である。「嫌い」がその発端であるだけ。「嫌い」とは別のものなのである。

果たして、幾人かの「嫌い」という感情が募っただけでその人の存在は覆されるのであろうか。答えは否だろう。私が「嫌い」という感情からあなたや彼・彼女の存在を否定を証明する材料はあまりにも少なすぎる。というか、存在しない。

「嫌い」と「存在否定」を混同する者はこの世に一定数いる。「嫌い」というだけで、その人の変えられぬ出自や人格を否定されることがあるのである。「嫌い」という感情はそんな醜い存在否定と絡めて使用されるべきではない。あくまで、自然な感情として「嫌い」のままで存在するべきなのである。

寛容性とはすべてを「好き」になることではない。それは誰かが誰かを「嫌い」であってもよいことを表す。しかしその「嫌う」対象の存在否定をしないことこそが大事なのだ。

「私はあなたのことが嫌いである。しかし、私はあなたの存在を否定しているわけではない。今日も共に生きていこう。」


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