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学校創っちゃった物語⑫ー漱石も見てた郁文館高校は夢の学園を志向する。
英文学者であった夏目漱石を一躍、流行作家の地位にまで押し上げた作品と言えば『吾輩は猫である』だろう。
その中で、主人公の英語教師の家に野球のボールを飛ばし、怒りを買ったのが落雲館中学の生徒らであった。この話には元ネタがある。今の根津神社近く。日本医科大学のあるあたりにあったのが夏目漱石が住む借家。そこに近隣の旧制中学から野球のボールが飛び込んで、漱石先生の怒りを買っていた。
この中学こそ
学校創っちゃった物語⑩‐識見高い官僚が立ち上げた東京学園高校は明治の頃の入学時期改変の最先端であった。
新型ウィルスの感染拡大から、教育現場も混乱している。様々な議論が出る中で、最近取り沙汰されていることのひとつが、9月入学制度の問題だ。東京都の小池知事も「明治の頃は9月入学だった」と語っていた。この知事の言葉はまさに正しく、当時の官立学校は9月入学、7月卒業が慣例であったのだ。
が、そんな中で4月入学、3月卒業を定めた夜間学校が明治22年に開校した。東京商業学校である。校長は高橋健三。東大出の
代書屋風情が読む作家と作品①-生涯通して葛藤した夏目漱石
夏目漱石という人は、人生最後まで葛藤し過ごしていたと思う。もともと、生まれてすぐに養子に出されている。さらに、復籍したものの実親からの愛情は薄かった。当時としては、親が高齢になってから生まれた子供だったからだ。そのあたりの感覚は、今と違う。恥かきっ子というやつだ。彼の代表作のひとつである「坊ちゃん」の出だしではないが。生まれた時から愛情面では損をしている。
さらに、モノ心つくころになると様々な
学校創っちゃった物語⑧-理想と現実がタッグを組んだ成蹊大学
古来から、理想と現実の問題は、あらゆる事業で横たわっている。起業した際に、何かをやりたいわけだが。それが、すぐに利益を生むとは限らない。なので、仕方なく。当面は利益が見込めそうなビジネスを手掛け時期を待ったりする。
だが、そうではない場合も希にある。理想主義者とリアリストがタッグを組んだ場合だ。この場合、リアリストの方は、かなりの資本力と理想主義者をうまくコントロールする度量が要求される。なの
学校創っちゃた物語⑦-渋く実学教育を施す中央大学
古谷一行、阿部寛、上川隆也、岸谷五郎、長谷川博巳。何となく共通点がある俳優たちだ。地味だが、いぶし銀といおうか。もっとも、そういった主観的なことをのぞいても、彼らには明確な共通点がある。そう、皆が中央大学に通っていたのだ。
1885年に英吉利法律学校として創設。創っちゃたのは若き法学者たちである。校是は質実剛健だ。徹底した実学教育を施し、法曹界などに多くの人材を輩出した。有名な弁護士では、花
学校創っちゃた物語⑥-科学者育成に特化する都立多摩科学技術高校
前回のブログでは、東京理科大を取り上げた。その創設時のモットーは科学の知識で国の発展に貢献しようということであった。
その創設から約130年。歴史は繰り返すとの名の通りだ。都内に科学技術を身につけ高いクオリティの科学者を育成するための高校が誕生した。2010年開校の小金井市にある都立多摩科学技術高校である。
この高校、スーパーサイエンスハイスクールの称号は当然として。ともかく、校内の実験機器な
学校創っちゃった物語⑤-漱石の「坊っちゃん」も出た東京理科大
国が成り立つ時というのは、学問では政治や経済さらには法律というジャンルが役に立つ。これは、独立したばかりの海外の国々を見ても明らかだ。勢い、明治時代の日本でも、そのテの学校が乱立した。
が、そんななかで帝大で理系の学問を修めた新進気鋭の若き学士らが決起した。国を栄えさすのに理学の力も結集させようと。で、彼らが努力奮闘の末に創ったのが現在の東京理科大である。創立は1881年。西南戦争が人々の記憶に
学校を創っちゃった物語④-偉大な数学者が開いた東京高校
徳川慶喜が大政奉還をして明治時代になった。その後、日本は涙ぐましいほど西洋文化をとりいれようと努力したのは周知の通りだ。
これは、有用な反面、自国の既存の文化を必要以上に否定することにもつながった。人種改造論など、とんでもない説が飛び出すことになったのである。
だが、本当に明治以前の文化は西洋諸国に比べ劣っていたのだろうか。もちろん、設備関係はそういう部分はあった。汽車などや電話も無かった。