学校を創っちゃった物語④-偉大な数学者が開いた東京高校

徳川慶喜が大政奉還をして明治時代になった。その後、日本は涙ぐましいほど西洋文化をとりいれようと努力したのは周知の通りだ。

これは、有用な反面、自国の既存の文化を必要以上に否定することにもつながった。人種改造論など、とんでもない説が飛び出すことになったのである。

だが、本当に明治以前の文化は西洋諸国に比べ劣っていたのだろうか。もちろん、設備関係はそういう部分はあった。汽車などや電話も無かった。

だが、教養に関しては、既に世界有数のレベルであったのは、歴史学者らも指摘している。特に数学に関してだ。和算といった時代から、娯楽としても親しまれており、各地には問題の出し合いをして切磋琢磨する道場のようなものまであった。

その江戸時代には関孝和という偉人など数々の数学者が居た。それらの大家の教えを受け、明治から大正にかけ活躍したのが、今回取り上げた東京高校のもとを築いた上野清であった。

彼は教育者としての才能にも恵まれていたのだろう。1872年の上野塾から始まり東京数学院などズバリ数学の専門校としての位置付けを経たのちに、東都高校という小説に出てきそうな名前になり現校名になった。今でも上野塾は経営母体の法人として名を残している。ちなみに、この上野清さんの数学者としての経歴は本当に華々しい。今の時代に生まれたら、学者としてもだが、教育者として、上野式⚪⚪のスピード解法などの本を書いて受験生のカリスマになってたかもしれない。

で、話は東京高校に戻るが。今はスポーツが有名だ。陸上競技も実績をあげており、映画の舞台にもなった。進学実績もそこそこ良い。

だが、どうだろうか。この歴史からするとなんかもったいない。いろいろな学校の歴史を調べると、せっかくの開校以来の強みを持っていながら活用してないところが多いとつくづく思う。時代は一定の価値観が通用しなくなってきている。逆に考えれば、自由に自分たちの強みを打ち出せる時代だ。

東京高校には、大数学者が創設したという歴史がある。体制を整え、この歴史を前面に出し理数科を創ったらどうだろうか。で、受験生向けに数学の参考書も出す。是非やって欲しい。これは余談だが。同じ東京の西部地区に多摩科学技術高校というのがある。まだ、歴史は浅いが科学教育に徹しており抜群の進学実績をあげ遂に東大合格者を出した。特化も武器になるのだ。

山本有三や佐野洋の母校でもある。さらに奮闘して欲しい‼

                                        

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