学校創っちゃった物語⑧-理想と現実がタッグを組んだ成蹊大学

 古来から、理想と現実の問題は、あらゆる事業で横たわっている。起業した際に、何かをやりたいわけだが。それが、すぐに利益を生むとは限らない。なので、仕方なく。当面は利益が見込めそうなビジネスを手掛け時期を待ったりする。

だが、そうではない場合も希にある。理想主義者とリアリストがタッグを組んだ場合だ。この場合、リアリストの方は、かなりの資本力と理想主義者をうまくコントロールする度量が要求される。なので、なかなか難しいわけだが。例えば、少し前にNHKで放送された朝ドラ「あさがきた」の場合は、こと学校ビジネスに関しては、このパターンをうまくこなし、今の日本女子大学を設立し軌道に乗せた。

同様に、かなりうまく行ったのが、今回取り上げる成蹊大学である。前身は成蹊学校。さらに、その前は私塾だ。創設者は中村春二という帝国大学出の俊才である。帝大の前は東京高等師範に通っていた彼は、帝大卒業後に、あの嘉納治五郎に声をかけられ同校の中学校の教師となった。

だが、生徒に教育を施すなかで、いまひとつしっくりこない。教師側からの理念を押し付けるあまり、生徒個人が持つ本来の個性というものを軽視しがちではないかと考え出したのだ。それを、折に触れ外に向け発言するようになった。

一方、中村の東京高師のときの同級生の今村繁三。ケンブリッジ大学に学び自由な個性重視の学風に触れた彼は、家業の今村銀行の代表になっていた。そこで久しぶりに旧交を暖めていた中村の考えに賛同。意気投合した彼らは、早速、中村の理想的な教育を実践すべく私塾を設立。今村が資金面のバックアップを請け負った。なんと学費はとらずに教えていたという。

さらに、その今村のケンブリッジ時代の同級生も大いに中村に賛同。三菱の岩崎小弥太である。岩崎弥太郎の弟の弥之助の子供だ。このバックアップは大きかった。成蹊塾は、成蹊学校、旧制成蹊高校、成蹊大学と発展したのは周知の通りだ。

理想と現実。この2者がガッチリとタッグを組むと、卒業生には安倍首相や中井貴一さんなどが輩出する学校もできるのだ。

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